不幸 今の自分に与えられてあるもの 今の自分にめぐっていることが どれだけ幸せなことか わからないこと
「報恩講」の季節となりました。報恩講とは親鸞聖人のご命日を縁として集まって「正信偈」のお勤めをし、仏法を聞き、お斎を味わう。この報恩講を勤めてきた歴史が、浄土真宗という宗派となったと言っても過言ではありません。報恩の「恩」の言葉をひもとくと、インドの言葉で「カタンニュー(為されたることを知る)」という言葉を、中国の漢字である「恩」という字に翻訳されたと伝わります。暁烏敏師は「この世に居るということの一切がご恩である。・・・私共の生活は恩をうくる生活であるともに、恩に報いる生活である。・・・毎日が報恩講である。」と教えて下さいます。報恩講を勤めるということは、今自分自身がいただいているもの、今までなされてきた事を知る事から始まります。報恩の「報」の字は「むくいる・お返しする」という意味と、「しらせる」という意味があります。報恩講をご縁として、ご恩を我が身に知らせ、お念仏を味わっていくという大切な仏事であります。
今月の言葉のテーマは、「私にとって本当の幸せとは」ということです。自分自身に恵まれていること、様々なめぐり合わせに気がつかずに、「あたりまえ、当然」として生活しているということは、不幸なことではないでしょうか、と問いかけています。自分自身を振り返ってみると、日々、足りないものを探しては不足・不満を感じて生活しています。あれが欲しい、これが欲しいと貪り、手に入れたとしてもすぐに他のものを欲しくなってしまいます。ものにあふれ、裕福で恵まれた生活をしていても、愚痴ばかりの人生ならば、どれだけ長く生きても不幸と云わざるを得ません。与えられているものに目を向け、全ての縁を「有り難う」といただく生き方にこそ幸せがあるのではないでしょうか。
私は、中島みゆきさんが歌う「糸」という歌が好きです。
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
(中略)
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます *歌詞抜粋
「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌詞はとても印象深いフレーズです。人間関係を縦糸と横糸に見立てて、そこから織り出される布は「いつか誰かを、暖めうるかもしれない」と、私たちの生活の営みが、他者に対して何らかの暖かさとなって包み込んでいく、そういう可能性をもった人生を生きているのだというのです。とても素晴らしい歌詞です。そして最後には「しあわせ」を「仕合わせ」という言葉で表現してあります。普段「しあわせ」は「幸せ」と書きますが、中島みゆきさんは「仕合わせ」という字の響きを大事にされています。これは、その様になった成り立ちや因縁を表し、自分を超えた目には見えないはたらきの中に自分がここにある、ということを表現されているのだと思います。良いことであろうが悪いことであろうが、全てがめぐり合わせて私の人生となっているということです。
お寺で勤める法要や研修会の最後には、親鸞聖人ご制作の和讃「恩徳讃」を唱和いたします。如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に報い、謝すべきであると歌われます。私を救ってくださる仏さま(如来大悲)、そして私たちに先立って念仏に生きていかれた方々(師主知識)の勧めによって、教えに遇わせていただいているという事実があります。私たちにめぐり合わされた、与えられていたご恩を全て理解することは難しいことですが、この度の報恩講の仏事を通して、先祖から私の所へ仕合わせられた事の幸せを感じつつ、お参りしたいと思います。 令和6年12月 貢清春