平成23年4月
生きているということは
死ぬいのちをかかえているということ (東井 義雄)
生まれてきたからには必ず死が訪れる、ということは誰にでもわかります。だから、この言葉は一見すると当たり前のことのように思えます。しかし、普段の生活の中で、「死ぬいのち」をかかえながら生きているという思いは中々出てこないのではないでしょうか。「いつか」死が訪れるけれど、その「いつか」がいつなのかはわからない。もしかしたら突然訪れるかもしれないけれど、まさか「今」ではないだろう、と思って日々過ごしているのが私の有り様です。
以前の掲示板の言葉に、「生を奪う死は また 生きる意味を与える」という言葉がありました。その随想の中で、私は「生死一如(生と死は一つである)」という仏教の言葉を紹介しましたが、今回の掲示板の言葉はまさにこのことを言い当てていると思います。
先ほど書いていたように、いつ訪れるかわからない「死」は、頭の中ではわかっているけれども、普段の生活の中では私のことにはなっていないのです。「死」を考えながら生きていたら、「生」が暗くなるような、生きている心地がしないような気がします。しかし、「死」というものをそのように捉えてしまう私自身が問題である、ということを「生死一如」の言葉が教えて下さっているのです。
いのちとは「生」だけでなく、「死」も含めて「いのち」である。もう一つ、東井先生の言葉に次の様なものがあります。
「生きているということは、少なくともわたしたちが気がついているくらいの、あたりまえのことではないようだ。生きているということのただごとでない底深さ、根深さは、たとえ感傷的にでもいい、知っておく必要がある。」
いつ訪れるかわからない「死ぬいのち」をかかえて生きているということは、「生」そのものが当たり前でない、ただごとではないということを知ることで、初めてうなずくことが出来る言葉です。そしてそれは、「死ぬいのち」があるからこそうなずくことが出来るのではないでしょうか。
3月11日の東日本大震災では、一瞬にして多くの方々のいのちが失われました。そして、今でも厳しい現実に身を置かれている方々が沢山いらっしゃいます。しかし、様々な情報が流れ、様々な問題が浮上してきている中で、情報だけに振り回されている私がいました。今回の掲示板の言葉は、では、私は今何をすべきなのか、何を考えるべきなのかを問われているような気がします。
(深草 教子)