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自分の居場所を見いだせない不安は深い

自分の居場所を見いだせない不安は深い

 先日、こども園に新しく転入してきたお子さまがおられました。初めて入る園舎や、知らない先生、お友だちに戸惑ったのだと思います。不安だったのでしょう。お母さんと離れてすぐに泣き出してしまいました。30分くらいたってもなかなか泣き止むことができずにいました。対応していた私も戸惑ってしまいましたが、外に出て、手をつないで少し歩くと、こちらから話しかける言葉に反応してくれるようになりました。好きな食べ物のことや、以前に通っていた園のこと、どんどん向こうから話しかけてくれるようになり、私もほっとしました。

 その子と接しながら、「もし私が、誰も知らない、見知らぬところで一日過ごすことになったらどうだろうな」と考えていました。表面的には何事もなかったかのように取り繕っていても、内心はやはり落ち着かないものを抱えるのだろうと思います。また、たまに家族と離れて外泊することもありますが、家族のことが気にならないことはありません。

 それだけ、家や、家族関係の中で、私は自分の居場所を感じ、安心を感じているのですが、ときにこの家や、家族関係の中にいても、自分の居場所にできないという問題が起こってきます。それは、自分の思い通りにならない出来事がおこるときですし、あるいは家族と対立するときでもあります。そのとき自分の居場所としていた家や家族関係の中で落ち着けなくなってしまいます。それまで親しんできた自分の居場所を居場所とできなくなってしまいます。ですから日ごろ安心を感じている家や家族関係の中での居場所も、実は非常に危うい居場所であるといわざるを得ません。

 問題はどこにあるのでしょうか。問題は私の内にあるのではないでしょうか。私自身、家族間で対立したときに発想するのは、「相手が自分の非を感じてくれたらいい」などと外に問題の原因を求めてしまっています。また問題が起こると、いつも「ここは違う、こうではない」と、現実はそうなってしまっているのに、それを拒もうとします。そして「そのうち、ひょっとすると何もかもよくなって、自分の思うようになるにちがいない」と、かすかに希望をつないで、じっと死んだふりをするかのように、時をやり過ごそうとさえしています。

 現実には、いま、ここに生きていながら、「これは違う、これは私がほんとうに求めているものではない」といい続けなければならないのですから、非常に虚しい生き方をしているといわざるをえません。以前「私たちの一大事の問題は、いつでも私は私自身でありうるか、どうかということに尽きます」と、竹中智秀先生から教えてもらいました。問題が起こったとき、対立してしまったとき、その問題の当事者にならなければ、何もかもを傍(そば)から見ている、傍生(ぼうしょう)と教えられる畜生的な人生となり、自分の思いの奴隷となるしかありません。

 「自分の居場所を見いだせない不安」は「深い」のです。その深さは私の日ごろの、自己中心的な思いよりも、本当の居場所をもとめるこころがもっと深いことをあらわしているのではないでしょうか。本当の居場所は、どのような状況でも、いま、ここの自分を自分としていけるときに開かれるものであり、不安はそのことを問うてきているはたらきだと思うのです。

「人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(中略)私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは生きていることに責任を担うことです。」(V.E.フランクル)    令和3年 10月 深草誓弥

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