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じっとしておれない というところに 求道生活ははじまる (和田 稠)

平成22年12月

じっとしておれない というところに 求道生活ははじまる (和田 稠)

 「じっとしておれない」とは、何かにうながされて体が動いていく、立ち上がっていく、黙って居座っておれない状況を言うのでありましょう。例えばよちよち歩く赤子のそばで親は転ばないか心配で、いつでも子に手を差し伸べる準備ができている、じっとしておれない感情というのもが親の行動に表れます。親というものは、子を常に案じてハラハラしながらも成長を願い、歩みを共にして生きていきます。

 じっとしておれない姿、身が動き、求める事の大事さを表現した和田先生言葉がありました。

 「求めるということが自体が救いなのだ。求めてどうなるというものではない。求めるということが救いなのだ。求めるということが大満足なのだ。」   【流罪と靖国】和田 稠著

という言葉です。生活の中では「求めた結果・がんばった結果どうなるの」という結果が重視されていくような事があります。しかし和田先生は、「求めるということが救い」とあるように、結果で救われるのでなく、求める「歩み」に於いて救われる、人生の内容が決まると表現されます。生活では、結果に縛られて身動きが取れずに歩みがストップしてしまう、ということもあります。

 とあるラジオ放送で、亡くなられた京都大学の名誉教授、森毅先生とある方の対談で、現代の学生は昔と比べてどうですか?違ってきた所がありますか?と問われた時、先生は「現代の学生は、『これだけ努力したんだから評価して下さい』という学生が多い。その時私は『全ての努力が報わる、こんなに怖いことはないぞ』と生徒に話した」と仰られていました。

 例えば、高校球児は甲子園を目指して日夜、練習に没頭し努力を重ねます。その努力の結果、全ての高校球児の願いである「甲子園優勝」という報いを得られるかというと、そういうことはありません。ほとんどの高校球児は「負け」や「挫折」というものを味わい、逆に「優勝」の報いはほんの一握りの球児にしかいただけないものです。全ての高校球児に「甲子園優勝」という栄冠があるならば「こんなに怖いことはないぞ」という言葉も何か頷けるものがあります。

 目標を立ててがんばる事に於いて必ず報いが訪れる、そのことだけが全てであるのならば、結果が出なかった時、報われなかった時に、やってきた全ての努力が無になってしまいます。その人生は「こんなはずじゃなかった」と、大事な人生を愚痴というものの中で、空しく終わってしまいます。それよりも甲子園を求め努力した歩み、野球道を歩んだ人生そのものが大事だったんだ、尊いことだったんだという所に立つならば、全ての歩みが尊い歩みとしていただけると思います。

 逆になかなか動こうとしない(じっとしている)私に、「あなたは道を求めていますか、結果や世間の評価だけを追い求めてはいませんか」と厳しく問うている言葉として受け止めさせて頂きました。

貢 清春

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