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地獄が無いと言うている人が 日日毎日煩悩の 炎を燃やして生きている 地獄が有ると言うてる人が 地獄を忘れて暮らしている (正親含英)

地獄が無いと言うている人が
 日日毎日煩悩の 炎を燃やして生きている
  地獄が有ると言うてる人が
   地獄を忘れて暮らしている  (正親含英)

 9月になり、ようやく朝夕は心地よさを感じることができるようになりました。今月は秋の彼岸会を迎えますので、掲示板にも浄土について教える言葉を選ばさせていただきました。しかしそういわれても掲示板の言葉には、地獄のことが語られていて、浄土のことは何も記されていないではないかと、おしかりを受けるかもしれません。

 私たちの中には浄土への往生というと、どうしても「いつか」「どこか」、いいところへ行けると考えてしまう心があります。浄土をここではない、どこかよそにある場所のように思い、対象化して、「どこにあるのだろうか」、「本当にあるのだろうか」という形でしか考えられません。その浄土は、自分自身に目覚めを与える世界であるどころか、自分自身の在り方を不問にしたまま求める個人的な理想郷にとどまるのではないでしょうか。

 ある先生が、「地獄や浄土は本当にあるのか」という問いに対して、「造ったからあるのです」とこたえられていたことを思い起こします。
 親鸞聖人は、『教行信証』の中で、真実の浄土(真仏土)について、

「謹んで真仏土を案ずれば、(中略)大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり」 (『教行信証』真仏土巻 真宗聖典300頁)

と示しておられます。真実の浄土(真仏土)とは、阿弥陀如来の本願の報い(むくい)として表れた世界、報土であるということがいわれています。浄土は私たちを離れてどこかに思い描かれる世界ではなく、まことの願いを見失った私たちに、まことの願いに目覚ましめんとする仏の願いがあらわれた世界だといえると思います。仏が私たちにはたらきかけ、つくりだされている世界です。そのような意味で、「いつでも」「どこでも」はたらきかけているのが浄土でしょう。

 その浄土建立の一番最初の願いとして、無三悪趣の願が掲げられています。「浄土は地獄、餓鬼、畜生なからしめん」とする願です。ここに仏が私たちの世界を地獄とみそなわしていることがうかがえます。ここが一番重要な問題だと思うのですが、掲示板の言葉のように、地獄が有るという人も、無いという人も、「自分が造り出している」という自覚のないことが問題でしょう。思いどおりにいかないと腹をたて、罵り合い、傷つけ合う。また、他者の幸せを素直に喜べない。「わが身一つが可愛い」という我執煩悩で生きている私が、地獄を造り出しているのに、地獄は無いといえるでしょうか。掲示板の言葉では、続けて「地獄が有ると言うてる人が地獄を忘れて暮らしている」と続きますが、地獄が有るという人も、その有るといっている地獄は私がこしらえたものではないというところにいるために、地獄の本質を見失い、忘れてしまうという指摘ではないでしょうか。

 浄土を離れて地獄もなく、地獄を離れて浄土もないのでしょう。大切にしたいことは、浄土も地獄も、「どこにあるのだろうか」、「本当にあるのだろうか」ということで問題にするのではなく、なぜ浄土、地獄ということが私に教え示されているのだろうか、と自分自身のこととして問い返すことです。

 中国の唐の時代を生きた善導大師は、私たちが生きるこの現実世界を「他郷」あるいは「魔郷」と示しています。浄土は私たちの生きる世界を大悲し、批判する、真の故郷からのはたらきかけです。令和6年 9月 深草誓弥

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