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行き先が分かれば 行き方が分かる 往き先が分かれば 生き方が分かる (仏光寺)

行き先が分かれば 行き方が分かる
 往き先が分かれば 生き方が分かる (仏光寺)

 「いきさきがわかれば、いきかたがわかる」上段、下段、どちらも読み方は同じですが、使われる漢字が違うために表現されていることが少々違います。

 「行く」という「行」の字は、十字路をかたどった象形文字で、道の事を表現します。「行き先が分かれば、行き方が分かる」という事は、例えれば、体の調子が悪かったら、病院へ行こうとします。病院という行き先が決まれば、いつ行こうか、どの道を行こうか、歩いて行こうか、車で行こうか等々、日々の生活の中で考えながら決断し、行動に移しています。今月の言葉の通り、行き先(目的地)が分かれば、行き方(どの道路を行くか)が分かります。

 次の往く先の「往」の字は、「むかし」「いにしえ」「いま」「むかう」「のち」「それからあと」という様々な意味があります。これは、過去・未来・現在の三世の歩みを表す言葉です。私達がどこから来て、どこにいて、どこに向かうのかという、人生の往く道を表現します。

 人間が心の底から求めるその往き先を、お釈迦様は彼岸の浄土であると明らかにされました。彼岸とは読んで字の如く「彼の岸」、向こう岸の世界を表します。此の岸は娑婆世界で、人間の煩悩に汚された穢土であります。この土が照らされ、彼岸の浄土に心をかけていこうという願いから、全国の寺院で彼岸の法要を営みます。また、お中日には真西に太陽が沈みます。その西方が人生の帰着点、帰る世界なのだと日没の太陽を拝んでこられました。

 私達の往く方向が「浄土」と定まり、人生の意味がはっきりしてくれば、今からの生き方がはっきりしてくる。そういう言葉が今月の言葉です。しかし、人生の往き先が分からない為に、生き方を見失うということがあります。

 古代ローマ時代、囚人の刑罰に、穴を掘っては埋めて、埋めたらまた掘るという作業があったそうです。この刑罰は体力を消耗し、精神的にも大きな苦痛をともない、気が狂ってしまう囚人もいたそうです。目的がない作業はやる気を失い、生きる力をなくし空しさしかありません。

 葬儀の場での弔辞で、「冥土、草葉の陰、冥福を祈る」等の言葉を読まれるときがあります。「冥土」とは、薄暗くてよく分からない世界という意味で、その暗い世界で幸せになってね、というのが「冥福を祈る」という意味であります。冥土と呼ばれる暗い世界が、人生の往くべき世界であるならば、人生そのものも暗いとしか言いようがありません。

 仏は私達に「浄土」という往き先がある、我が国である浄土へ帰ってこいと阿弥陀如来は呼びかけておられます。そしてこの「往く先・浄土」への道は、自分で発見して切り開いていく必要がない道です。親鸞聖人も往かれた道であり、先祖の方々もたどった道でもあります。諸仏方は、ただ念仏を称えながら、彼岸の浄土からの呼びかけに応え歩まれて往かれました。そして私達も同じ道を歩ませてもらえばいいわけです。その先達の後ろ姿をじっと見つめながら、唯々安心の中で念仏申す生活をしてまいりたいものです。 (貢清春)平成28年9月

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