花咲かす 見えぬ力を 春という 人となす 見えぬ力を 佛という(藤元正樹)
春の彼岸を過ぎた頃から桜のつぼみが膨らみ始め、4月初めの頃には満開となりました。だれかが「春が来た」と号令をかけたかの様に一斉に開花する姿は、不可思議の見えぬ力、自然の大いなる力を感じます。古来の人は、花を咲かせる、目には見えないいのちのうごめきと、躍動する姿に感動を覚え、「春」と名付けたのでありましょう。春は目には見えないけれども、確かに存在しています。
「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。」(『星の王子さま』サン・テグジュペリ)
現代人は目に見えるものだけを信じ、目に見えないものは信じないという傾向がある様に思います。私たちはプレゼントや物をいただくことがありますが、その物の値打ちや善し悪しだけ目を奪われて、その物に込められた思いや心などを推し量ったり、想像したりする事が難しくなっているのかもしれません。心や思いは目には見えません。「いちばんたいせつなことは、目に見えない」からこそ、心を凝らして見なくてはならないのだと思います。
今月の言葉では、続けて「人となす 見えぬ力を 佛という」と教えられます。「佛」とは、私を人として育てて下さる見えないはたらきであるといただかれています。「私は生まれた時から人間です」と仰る方もおられるかもしれませんが、人間ほど不安定な生き物はありません。どういうものに育てられるかによって、何者にでもなる様な存在なのです。
先日あるところでご法事があり、高齢の女性の方とお話をしていました。実家は真宗の御門徒で、結婚をして他宗の家へ嫁いだお方だったのですが、まだ若い頃にお彼岸の志を届けるために、親からの使いで寺にお参りされたことがあったそうです。「寺に参ったら、一席法話を聞いてきなさい」と親から言われ、しぶしぶお参りされたとのことでした。参詣席の一番前に座り、高座に座ってご法話をされた説教師から「悪を転じて徳と成す」という言葉を聞いたそうです。女性はその言葉が今でも忘れらないと語っておられました。思い通りにならない事が起きたり、様々な縁に触れた時に、この言葉を思い出しては力をいただいていると、お話下さいました。その女性は生き生きした表情で、その当時の事を語りながら、仏法のご縁に出会った事を大変喜んでおられました。
親鸞聖人は『教行信証』の総序に、「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳と成す正智」とお示しになります。「円融至徳(えんゆうしとく)の嘉号(かごう)」とは「完全なる徳をそなえた名号」という意味で、「南無阿弥陀仏」のことです。お念仏は「悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらき」があるということを讃嘆しておられます。身に起きる都合の悪いことを断ち切って救われるのではなく、苦しい現実でさえも徳へと転じられていくことが、浄土真宗のお救いということなのです。阿弥陀の願いを「本願」といい、そのはたらきを「本願力」や、「弥陀願力」といいます。その女性のお話を聞きながら、阿弥陀如来がその人の人生を支えている言葉となって、活きてはたらいて下さっているのだと感じられました。
嬉しい事もあれば、悲しい出来事に出会うこともあります。身に起こる全ての事をそのまま引き受け、都合の悪いことであっても、無駄なものは一つもないと転じてゆける智慧をいただいていくことが、お念仏の利益なのです。「佛」のはたらきに出会って欲しい、そして「人」とならせていただこう、そういう願いを今月の言葉からいただきました。 令和6年4月 貢清春