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願わざれども花は咲き  願えども花は散る  佐々木 蓮麿

願わざれども花は咲き  願えども花は散る  佐々木 蓮麿(ささき はすまろ)

 4月になり、入学式、入園式の季節を迎えました。山桜が咲き、学校や公園の近くでも里桜が咲いていますし、テレビではお花見をする人たちの姿を伝えています。古来より日本人は桜の花に心を寄せ、今や天気予報と共に桜の開花予想まで報道されています。

 私も大学生の頃にサークルの友人とお花見を毎年していました。しかし、そのお花見の時、桜はいつもすでに散っていました。なぜかというと、新入生歓迎会を兼ねているので、いつも四月下旬くらいになっていたためです。ですから実際はお花見とは名ばかりの、野外の飲み会になっていました。その頃私は、「今がお花見なんだから、もうちょっと遅く咲いてくれればいいのに」と思っていました。今振り返ってみますと、とても傲慢なことです。

 ところで、なぜ桜は春に咲くのでしょうか。気になったので調べてみました。桜の花は咲いてその役目を果たして散ると、すぐに来年咲かすための花芽(はなめ)をつけるそうです。葉桜になった時に実は来年用の花の実を持っているのだそうですが、一旦暖かい春から夏は仮眠してしまうようです。そして季節が巡って冬になり寒くなってくると、眠りから覚め花芽が育ち始めます。そして寒さが和らぐ2月後半から3月にどんどん育って、暖かさが増す3月後半になると花が咲き出すのだそうです。

 今月の掲示板の言葉は、私たちの勝手な願いとはうらはらに咲き散る花のすがたを通して、私たちの個人的な思いを中心にすることなく、この世の道理に目覚めてほしいというこころが込められているように思います。まず「願わざれども花は咲き」とありますが、私は桜の花が咲く直前になって、桜の木の様子を気に留めていることに気付かされます。それまでは見えていても、見てはいないのでしょう。しかし私が気にしていようといまいと、桜の木は生きているのです。冬の寒空の下でこそ目覚め、つぼみを育てています。そして暖かくなるのをじっと待っているのでしょう。

 その生命の営みを、「まだ咲くには早い」といっていく愚かさを指摘しているのが、前半の言葉でしょうか。後半の「願えども花は散る」という言葉も、こちらの都合で「まだ散らないで」といくら思っていても、桜は生きるため、すでに来年の準備を始めています。花は決して私たちの思いでは動かせない、大きな自然のなかの道理にそって咲き散っているのだということを知りなさい、という言葉ではないでしょうか。

 そして、この花に譬えられた咲き散るいのちの道理は、人間にも置き換えられます。私が頭でどのように考えていても、いなくても、人の体は生きよう生きようとしています。爪も伸びます。髪も抜け替わります。そして、「まだ死にたくない」と願っても、条件が整えば死をむかえます。花で示された道理を見失っているかぎり、「こんなはずでなかった」という言葉しか出てこないのではないでしょうか。私たちの思い通りになることなどほとんどありません。私たちにできるのは、自分に今あたえられたいのちに目を向けることです。 (平成31年4月 深草誓弥)

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