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人間は 逆境に遇わぬと 恩というものは 解りません (曽我量深)

人間は 逆境に遇わぬと 恩というものは 解りません (曽我量深)

 あるところで四十九日法要がありました。その時の話です。
 亡くなったのは80才半ばの女性、家族親戚集まっての法要が終わった後、納骨へと参りました。墓地には4、5名ほどの近親者が集まり、先に納骨を済ませてお線香を供え、墓石の前でお勤めを始めました。すると突然、大きな声と共に嗚咽する息子さんの声が聞こえてきました。びっくりした私は振り向くわけにもいかず、お経を読むことに集中していました。
 「かあーちゃん、ごめんなー、かあーちゃん」
 息子さんと言っても60代半ばの方です。涙を流しながら、何度も何度もこの言葉を叫んでおられました。

 生前に何があったのか分かりませんし、尋ねもしませんでしたが、もしかすると親不孝があったかもしれません。母親に心配ばかりをかけて来られたのかもしれません。お経の言葉と息子さんの叫びの中で、悲しくも何かあたたかいものを背中に感じながら、お勤めの時間が過ぎていきました。そしてお経の最後、「願以此功徳」の時には、
 「かあーちゃん、ありがとー」
 落ち着きを取り戻した声で、感謝の言葉が息子さんの口からあふれ出てきました。今まで言わなかった言葉だったのか、言いたくても言えなかった言葉だったのか。四十九日が過ぎて墓石の前に立った時に、親への思いが理性を突き破って出て来たのでしょう。

 そのお参りの後、気付かされた事があります。それは、自分自身は身内の者に2つの言葉「ありがとう」と「ごめんなさい」を心から言っているのだろうかと。考えてみると日常生活の中で謝らなければならない時は、必ず計算をしています。今謝っておかなければ後々になって関係がこじれたり、気まずくなったりする。だから今のうちに謝っておこう、そういう計算が入った中での「ごめんなさい」なのです。

 墓石の前で涙を流しながら懺悔し、感謝の言葉を語った息子さんの中に、そういう計算は一つも無かったのだと思います。唯々、ご恩に対してお返しすることの出来なかった思いと、愛情を持って育てられ生かされてきた感謝の思いが「ごめんなさい、ありがとう」の言葉になったのだと思います。
 
 恩と言う言葉は以前も紹介したことがありますが、インドの古い言葉で「カタンニュー」と言い(為されたる事を知る)という意味があります。その言葉を中国の漢字である「恩」の字に翻訳されました。「為されたる事を知る」とは、私にしてくださった行為が何であったかを心に深く考え、思い、知るということです。よくよく考えてみると、私達の人生が平穏無事で自分の思い通りになっている時には、そういう「為されたる事」に気が付かずに通り過ぎているのかもしれません。今月の言葉の様に、悲しい出来事や苦しい逆境に出遇わなければ、ご恩が解らない様な生き方をしているのでありましょう。

 お念仏を頂かれてきた先輩方は、その様な逆境との出会いを「如来様からのご催促」と頂いて来られました。「催促」とは物事を早く済ませる様に急がせるという意味です。日常の生活で目先のことにとらわれ、忙しい忙しいと右往左往している私に、本当に急がなければならないことがあるのではないか、お慈悲のはたらきに早く気付きなさいと、如来からのご催促として逆境を頂戴していくという事です。親鸞聖人も念仏が弾圧され、流罪に遭われる時に、「これなほ師教の恩致なり。(流罪はまことに法然上人からのご恩であり、如来からのご催促である)『御伝鈔』」と表されています。この弾圧は四人が死罪、七人が流罪というとても厳しい事件でしたが、これを機縁として、沢山の人々に念仏を伝えよというご催促として、素直に受け取めて下さったのでありましょう。 令和4年1月 貢清春

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