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故郷(ふるさと)は 一人ひとりの 人生の出発点である

故郷(ふるさと)は 一人ひとりの 人生の出発点である

 ニュースでは、今年も夏休み、お盆を故郷で過ごす方の帰省ラッシュの予想を伝えています。私はお盆の時期、忙しいものですから、お盆を故郷で過ごすことはありません。また、故郷に帰省するといっても、私の里は伊万里なので、40分もあれば行くことができるので苦労することもありません。ですから、毎年の風物詩である、この帰省の混雑のニュースを聞くたび、不思議に感じるのです。多くの人が故郷に混雑することが分かっていながら帰るのです。なぜ故郷はそれだけ苦労してでも帰りたくなる場所なのでしょうか。
 帰る場所ということで想起されるのは、源信僧都が著作の『往生要集』のなかで、地獄をあらわす言葉として、

  「我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し」 源信『往生要集』(『真宗聖教全書』一 738頁)

という言葉を残しています。「私は今、もはや帰るべき場所もない。たった一人で、友も無く、地獄に堕ちていくのです。」この言葉は、「阿鼻(あび)地獄」(無間地獄)に堕ちていく罪人が泣き叫ぶ言葉とされています。人間は元来、多くのものと共に在り、支え合いながら生きています。しかし、このような当たり前のことを無視し、自らの欲望にのみ生き、共に在ることを見失った者は、一人、孤独の世界に堕ちていかなければなりません。友も無く、永遠の孤独に満ちた世界で、長い地獄の苦しみを背負っていかなければならないということを教えた言葉です。帰る場所を失った時、私たちは地獄を体験することになるということです。

 思えば故郷は、私を待っていてくれる人がいるところでないでしょうか。たとえその人が命を終えていても、故郷で私を待っていてくれるような感覚があります。私の里の父も生前「おかえり」といって、私を迎えてくれました。ですから私たちが故郷に求めているのは、自分を待っていてくれて、迎え入れてくれる世界だと思うのです。そして、その私たちが安心できる世界を求めていることのあらわれが、お盆に苦労してでも帰省し、お内仏、お墓にお参りするという形になっているようにも感じます。「ただいま」といって帰っていける場所をもつことで、安心して出かけていける、外で暮らしていけるのでないでしょうか。

 阿弥陀如来は、私たち自らが持つ煩悩のために、帰るべき故郷を見失い、孤独で友を失っている在り方をよく知られ、浄土を荘厳し、一人ひとりを「欲生我国」と、「すぐ来なさい」と呼びかけておられます。浄土を「存在の故郷」と受け取られた先達がおられましたが、今回の掲示板にあるように、浄土こそ「故郷」であり、そこで阿弥陀如来が親として待っていて下さるのです。「人生の出発点」とは、私のことを本当によく知っている方がおられ、私たちが本当に求めている世界があきらかにされている「故郷」なのでしょう。その世界にふれてこそ、どこにいっても安んじて生活ができるのです。

 私はお世話になった先生から、「浄土真宗の教えといっても、事実共に生きているのだから、共に生きていきなさいという、単純明快な教えです。」と教えてもらいました。共に生きている事実に背を向けている私に、故郷が「共に生きよ」と呼びかけているのです。 (令和1年8月 深草誓弥)

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