自由とは 不自由なことが 苦にならないこと
自由とは、自分を縛り付け支配されている「不自由」から解放された状態を言い、自分の思うがままの姿を言いますが、今月の言葉は不自由さが無くならず、不自由なままで苦にならない状態を「自由」と説いてあります。
一体何が本当の自由なのか、自分が自由になるとはどういう事なのか、考えてみましょう。
こういう書き込みを見つけました。タイトルは「早く自由になりたい、単身赴任になりたい」
投稿は30代後半で2人の小さい子を持つお父さん。仕事からの帰宅は早く、育児と家事を一生懸命こなしてこられたそうです。妻は専業主婦で小さ な子を抱えて睡眠不足の状態。妻には相手にされず、しょうが無いと分かっていても寂しい。正直家に帰りたくないのが本音で疲れ果てた状態。「早く自由にな りたい、単身赴任になりたい」という相談でした。
「分かる、その気持ち」と言うお父さん達も多いでしょうし、「子供の面倒見る私の苦労も分かってよ、私にはほとんど自由な時間なんて無いのよ」 と言うお母さん達の怒りの声も聞こえる気がします。子育ては生活スタイル全てが子供中心になり、自分のしたいことは二の次です。食べるものも寝る時間も子 供中心、泣いたらだっこしてあやし、遊び場が危なくないように気を使い、等々・・・体がきつくても休む暇は無く、付きっ切りで相手をしなければなりませ ん。今まで自分の事だけに費やしてきた自由な時間はほとんど無くなっていきます。
この様に、子育ての現場では自分の時間がそぎ取られ、不自由を感じている人が多いと思われます。しかし本当に子供が原因で不自由をしているので しょうか。不自由させている子供がいるのではなく、本当は目の前にある現実を受け止められない、子供と生活している今、その「時」を受け入れられない、と いう事が原因としてあるのではないでしょうか。
不自由と感じているときは、他に楽で良い場所があるはずだと、いつも思い通りになる世界を外に求めていきます。しかしそのような人は結局どこに 行っても「自分の居場所はここじゃ無い」と、この境遇に文句と不満ばかりを言い、愚痴をこぼして苦しんでいくのです。自分の人生であるはずなのに主人公に なれず、自分はいつもお客さんです。そうして何時までも、ここでは無い思いが叶う別世界を夢見ながら人生が空しく過ぎてしまうならば、これほど悲しいこと はありません。
阿弥陀の本願のはたらきは、人間に「転成」という利益をもたらします。本願のはたらきは、この様な私の空しさを超えさせ、不自由だと感じている 現実を積極的に受け入れていける者へと転じていくのであります。転じるということは、今現在の状況が変わることではありません。不自由さがなくなるのでは なく、不自由なままでも目の前の事に向き合いながら生きて行ける、そういう自由な人を生み出し続けるのであります。
東井義雄先生がすばらしい言葉を残してくださっています。
雨が降ったからといって
天に向かってぶつぶついうな
雨の日には 雨の日の
生き方がある
九州は梅雨の時期に入りました。雨降りの不自由な中でもちゃんと生きていける大地があるじゃないか。その様に勇気づけられる言葉です。 貢 清春