一度限りの一方通行 誰も代われぬこの人生は すでに見守られ 照らされ 輝いている (仏光寺)
数年前、元プロ野球選手の清原和博氏が覚せい剤所持の疑いで逮捕された事件がありました。その事件後、高校時代からの親友であり同じくプロ野球選手だった桑田真澄氏は、逮捕される前から清原氏を心配し、小姑のように忠告を続けていた時期があったそうです。逮捕後の取材で桑田氏は次のようにコメントされました。
「今言えるのは、野球のピンチに代打とリリーフはいるけど、自分の人生に代打とリリーフはいない。現役時代に数々のホームランを打ってきた。自分の人生でもきれいな放物線を、逆転満塁ホームランを打ってほしい。」
これは『仏説無量寿経』の、「身自当之 無有代者」(身、自らこれを当《う》くるに、代わる者あることなし)というお経のお心を表現している様に感じます。自分の人生の代わりになってくれる人はいない、誰も代わってくれないこの身なのだから、その時その時の「今」を、そしてこれからの人生を大切に生きて欲しいとの思いでコメントされたのだと思います。同じプロ野球選手として一緒に活躍し、古くからの親友として再起を願う桑田氏のこの言葉は、罪を犯してしまった事への悲しさと、友を思う温かさが感じられます。現在、執行猶予中の清原氏は、依存症の治療をしながら薬物依存症に関する啓発イベントにゲストとして参加するなど、薬物の危険性を伝える活動をしておられるそうです。
大きな失敗をした時は出来る事なら時間を巻き戻し、やり直したいと思ってしまいます。しかし人生をやり直すことは出来ませんし、どれだけ罪を償っても過去の過ちが消える訳ではありません。「これからが これまでを決める」という藤代聰麿師の言葉にもありますが、今から「これから」をどの様に生きていくのかが、「これまで」出会ってきた様々な出来事に意味が与えられていくのだと教えて下さっています。
今月の言葉はその様な私たちの人生が、仏から「見守られ 照らされ 輝いている」と説かれます。『正信偈』には「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」というお言葉があります。阿弥陀如来の大悲は私を見捨てずに、倦(あ)きること無く、常に照らして下さると述べられています。大悲とは、迷い苦しみの中に生きる衆生を悲しみ、目覚めさせ救おうとする如来の活動の事をいいます。それは病気に苦しむ子供に寄り添い、一緒に苦しみを共にしている母親の姿と重なる所があります。子供(衆生)が救われるためにはどんなつらい事も厭わず、それが徒労に終わろうとも悔いることは無いという願いが如来のお心です。その大悲の光は「無倦」に、怠ること無く、疲れること無く、退屈せずにはたらきかけておられるというのです。
その光に出会えばこそ人生が輝き出すというのです。「輝く」ということは一つ残らず大切な宝物になっていくということだと思います。人生に無駄なものが一つも無かった、と言えるということです。生きていれば、あれはしなければよかった、やらなければよかったという後悔が沢山出てくるわけです。そして最後には「なんか人生つまらんかったー」と、空しく過ぎて終わってしまうのが本当の悲劇ではないでしょうか。その様な生き方をしてしまう私たちに、輝きをもった人生を生きていける道がありますよ、それは本願信じ念仏申すことですよと、大悲のお心で呼びかけおられるお方が阿弥陀如来という仏様なのです。
桑田氏がコメントされた「逆転満塁ホームラン」を私は打つ事は出来ませんが、一度限りの人生ですから結果三振したとしても、バッターボックスに立てた事を喜べる私になれたらいいなあと思います。 貢 清春 平成31年3月