他人を思い通りにはしたいが、自分を思い通りにはさせない私
授かった子供が、もう四歳になりました。しばらく前から比べると、様々な言葉を発するようになり、自分がしたいことを言葉で訴えかけるようになりました。
先日、こども園に迎えに行き、乳幼児部の前を通りかかったときのことです。「三回だけ、遊んでいい?」と滑り台の前で立ち止まって、遊具で少し遊びたいと言ってきました。「しょうがないなぁ」と思いながら、「いいよ」と答えて、しばらく子供が遊ぶ傍で見ていました。すでに心の中では、「早くしてくれないかな、こっちは疲れているんだぞ」というようなことが浮かんでいましたが、「いいよ」といったのだからと待っていました。
十五分くらいでしょうか、三回といわず何度も滑り台で遊んで、他の遊具でも遊び始めていた子供に、「そろそろ帰ろうか」と言いました。「もういいだろう」と思っていました。しかし、その言葉に子供はニコニコするだけで、帰ろうとするそぶりも見せません。また、しばらく待ちました。
その間、子供は「お父さん、見て見て。」と何度もこちらに声をかけてきます。最初はきちんと応答していましたが、何度も繰り返された後の私の応答は非常におざなりなものでした。まさに掲示板の「他人を思い通りにはしたいが、自分を思い通りにはさせない私」そのもので、この言葉を見て、すぐに思い当たったのが、この子供とのやり取りのことでした。
問題は、自分の思いや都合を最優先させている私にあるように思います。その後、乳幼児部の前を通るたびに、「今日も遊んでいい?」と聞いて、「お父さん、見て。」という子供の行動には、こちらが翻訳しなければならない意味があるように思えてきました。うちの子供は、怖がりなところがあり、友達の後ろからついていくような性格ですので、思い起こすと乳幼児部にいた二年前位は、なかなか遊具で思い通りに遊ぶということが出来ていなかったのでした。この遊びには、「お父さん、僕はこういうことも出来るようになったよ」という気持ちが込められているのかな、と思うと、自分の思いばかりで子供の気持ちに寄り添えなかった自分が恥ずかしくなりました。「お父さん、見て。」といってくる子供は、成長した喜びを私と共有したくて声をかけてくれていたのかもしれません。
私どもの「共に生きるという世界」というものは、手を取り合える理想郷を我々の手で作るんだという方向にはないんでないか。(中略)自分はいかに生きて行くために回りの人々に迷惑をかけているか、そのことをまず深く知る。私の言い方で言えば、そういう事実を深く悲しむ。そういう悲しむ感覚だけが、深く悲しむことが逆に人に向かって自分の心を開いて行く、そういう促しとなって働いてくるのでないか。
『共に生きるということ』宮城顗
子供が親に迷惑をかけているとしか受け取っていなかった私に、私も子供に迷惑をかけていると立ち止まらせてくれたのが、この宮城顗先生の言葉でした。 深草誓弥 平成29年6月