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「聞」 耳を澄ませて 自らの深い ところに在る 声を聞く

「聞」 耳を澄ませて 自らの深い ところに在る 声を聞く

 我が家では、夕飯の時はテレビは付けずに音楽を流すようにしています。クラシックやリラックスミュージック、自分が若いときに聞いたバンドや時には演歌など、子供達の反応も様々です。いつの間にか子供がビートルズを口ずさんでいたり、自分が生まれる前の曲『上を向いて歩こう(坂本九)』を流したら「なんだか懐かしい曲」と言い、親をびっくりさせたりもします。

 しかし食事の時の音楽は文字通り曲を流しているので、心を傾けて集中して聞いてはいません。食事が主で音楽はバックミュージックの程度なので、流れている曲の作り手のメッセージや歌詞を味わうことも無いと思います。

 これと同様に、他人の声を聞くためには、相手に心を傾け、耳を澄まし、黙して聞かなければ聞こえてこないのかもしれません。しかし現代社会は、様々な声に「耳を澄ませる時間」が少ない様に思います。耳を澄ませ聞くという以前に自己主張が多く、話が饒舌で、大声で喋り、他人が話をしている最中でも割って入るような人が多くはないでしょうか。テレビで放映される政治家の討論番組を見ると、顕著にその姿を見ることが出来ます。

 朝日新聞に鷲田清一氏のコラム「折々のことば」があります。今年1月1日の言葉が次の言葉でした。
 「Happy New Ears 今年こそ耳の人になろう。長く圧し殺されてきた声、出かけては呑み込まれた声、ぼそっと漏らされた短すぎる声、恐る恐る絞り出されたくぐもった声、今にも途切れそうな声。それらにじっと耳を傾けられる人に。「聡明」には耳がある。「省庁(廳『ちょう』)」にも。そこは天の声、民の語を聴く場所だった。その声を最もよく聴く人が「聖」。」

 私達は耳を持っていますが、「今年こそ耳の人になろう」という鷲田氏の言葉は、「私は今まで、聞くことをおろそかにしていた、他者の声を本当に聞いていなかった」という嘆きや悲しみが感じられます。そしてもう一つは、自分自身の深いところにある真実の欲求に耳を澄ませたい、私の本当の願いは何だろうか、そういう意味も含まれているようにも思われます。

 明治の親鸞と言われた清沢満之(きよざわ まんし)という方は、「人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり」という言葉を残されました。人の心の一番奥から突き上げてくる、最も盛んな要求に応えるために宗教があるのだと言われています。

 お念仏は、私達の日常で思う表面的な要求には応えてはくれません。何度お念仏を称えても腹はふくれませんし、お金持ちになるわけではありません。病気も治してはくれません。念仏は自分の思いを叶える道具ではなく、私の中の最も深い要求に応えて下さるのだと言われます。

 本当に私が求めているものは何なのだろうか、何のために生まれて何のために生きるのだろうかという、人間の深い願いを聞く身に育てられなければ、どんなにお金持ちになっても、どれだけ長く生きても人生が不安のまま、空しく過ぎてしまうのです。

 「ただ、仏法は聴聞にきわまる」と蓮如上人は仰います。「聴」はしっかり耳をそばだててきくという意味、「聞」は自然ときこえてくる、ひびいてくるという意味だと言われます。他の人の声も、自分自身の深い声にも心を傾けて、今年こそは「聞く人、耳の人」でありたいと、私も感じました。  (貢 清春) 平成29年1月

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