生きるということは 学ばなくてもわかるような なまやさしいことなのであろうか (児玉暁洋)
私が大谷専修学院で学ばせていただいた時に教えてもらった事がありました。人間は人間によって教育されて初めて人間になる事が出来るのだと。狼に育てられたアマラとカマラは、人間の姿格好はしていても人間とは言えず、狼そのものの生活をしていたというのです。言葉をしゃべれず人間らしさを失い、四本足で生活していたと伝わります。その事を聞いた時には非常にショッキングで、「そんなこと有るはずが無い」「人間に生まれたら人間になるはずだ」と、その時は思っていましたが、教えを学んで行く間に納得せざるを得ませんでした。
私たち人間は、人間の親から生まれても、育てられる環境によって人間になるか否かは分からない、非常に不安定な生き物で、誰に育てられるかによって、何者にでもなる様な存在であるというのです。しかし他の動物は違います。犬に生まれれば犬の生涯を全うします。どれだけ人間世界で生活していても、犬が人間の様に言葉を話すことはありません。人間以外の動物は、生まれた時からすでに完成した生き物として生き、寿命を全うしていきます。
ある方から「人間は誰しもが未熟児のままで生まれてくるのだ」と教えて下さいました。これは、他の動物と違い人間は生まれながらに完成されてはおらず、人として自立するまではとても長い時間が必要だということです。馬や牛は生まれて数時間経つと、母親の乳を飲もうと四本足で立ち上がります。それに比べ人間の赤ん坊は、立ち上がるまでに約1年は必要です。さらに言葉を話す様になるまでには、さらに1~2年は必要となります。そこまで成長するには決して一人で生きてはおれず、様々な人に育てられ守ってもらわないと生きることが出来ません。その事を思うと、人間は他の動物と比較したとき、ものすごく弱い生き物だとも言えます。
子供が大人になることを「成人」と言いますが、文字通り「人に成る」ということです。私たち人間は生まれながらにして人間であるのではなく、多くの人に育てられ、沢山の事を学ばなければ人として成長出来ないのだということを表現しているのだと思います。しかし、人生における学びというものは、18才で終わりではありません。大人になっても年老いても、常に人生に学ぶことが大切です。
以前の掲示板の言葉に「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そしてお念仏によって育てられなさい」という信國淳先生の言葉がありました。念仏申し、仏法聴聞を大事にされている方々が仰る言葉に、「お育てにあずかる」、「お育てをいただく」という言葉があります。それは、私たち人間は仏法を聴聞して、仏様から育ててもらう事が大事なのだということです。私たちが分かる、分からないという分別はちっちゃいもので、それよりも大きいものがお念仏なのだ。大きく広いお念仏のお育てに触れてはじめて「人として生まれてきてよかった」と、自分の人生を喜びの中で終えることが出来るというのです。その事を親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉で教えて下さっているのだと思います。私の中に、浄土という真(まこと)が生きてはたらいてくるということです。その事によって人間として本当に生きる人になる。親鸞聖人は本当の人間になってゆく歩みを「浄土真宗」という言葉で明らかにされたのです。 令和5年 10月 貢清春