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「自然」 豪雨に襲われ 家がこわされ 橋が流され 人命が失われた けれど 人間が引き起こす 戦争や環境破壊に比べ 自然はやさしい (浅田正作)

平成23年6月

自然 豪雨に襲われ  家がこわされ  橋が流され  人命が失われた
  けれど  人間が引き起こす  戦争や環境破壊に比べ  自然はやさしい
                               浅田正作

 津波に襲われた三陸沿岸地区では震災直後から、自衛隊や警察・消防団の方々が凍える寒さの中、懸命の救助活動を展開されました。沿岸に打ち寄せられ、瓦礫の下で息絶えた沢山のご遺体を安置所へ運び、方々を遺族に返すことが仕事になっていったそうです。被災地の姿を見る度に、自然の力の大きさ、恐ろしさを、あらためて知らされます。

 現代は、地震や津波などの自然のメカニズムが科学的に解剖されて、それを人間の知識として知っています。知識で知っても、自然の力そのものを人間の力でコントロールすることはできません。自然の力や営みは、人間の味方でなければ敵でも無く、ただそう有るもの。もともとそう有るものに人間が生まれ住み着き、生活をしているのが事実です。

 そして、日本という国は、その自然の営みの中で、繰り返し自然災害「天災」に遭いながらも、私達が生きるために様々な恩恵を受けて来ました。

 その様な生活を送る中で、自然への「畏敬」という心情が生まれてきたのだと思います。自然の営みや仕組みを壊したり、力をあなどると命を落とす様な厳しさがあるぞ、という畏れ。そして自然は私達にいのちを恵み、育んでくれる母の様なやさしさに、敬わずにはおれない。そのこころが自然と育ってきたのではないでしょうか。

 しかし、経済至上主義の中で生まれる環境破壊や、個人や国家の平和を求めて行う戦争は、人間の都合によって引き起こされる災害「人災」であます。人間が自然のやさしさに甘え、「畏敬」のこころを忘れ、生活の豊かさだけを追い求める結果、自然を汚染し破壊してきました。それでも自然はその人間の浅はかな振る舞いさえも、人間の大きな罪を受容してくれるかのように、ただ黙って浄化してきてくれました。

 しかし、今なお問題となっている放射性物質による汚染は、自然の浄化システムの許容範囲を大きく超え、全てのいのちの生存を脅かす事態となっています。そして、その放射能による不安の中で生活しなければならない人々の苦悩は、想像以上のものだと思います。

 「核の平和利用」という名のもとに計画され、造作された原子力発電も、存在自体を危ぶむ声が増えつつあります。アメリカの先住民は「自分たちの生活環境は先祖から貰った物ではなく、子孫から預かった物である。ゆえに、それを大切にして子孫に返さなければならない」という言葉を代々伝えてきたそうです。

 核によって汚染した大地を、子孫に返す訳にはいきません。私達が問わなければならない事は、戦後の経済発展の中で見失ってきたものは何なのか、人として立ち返るべき事とは何なのか。一人ひとりの生活の在り方生き方を、今だからこそ見つめ直す必要があると思います。

(貢 清春筆)

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