平成23年3月
お浄土で 親鸞聖人は 穢土を生きる私を 待っていて下さる (広瀬 杲)
幼稚園や保育園に来られる園児のみんなは、各々家があります。毎日「行ってきーます」と家を出かけ、「ただいまー」と家へ帰って来ます。何でもない日常の光景ですが、この子ども達に帰る家が無かったとしたらどうでしょうか。おそらく安心して園に居ることすら出来ないでしょうし、元気いっぱい遊ぶこともできない出来ないでしょう。言うまでもなく日々の生活は「帰る場所」によって支えられている、ということが思われます。
「帰る所があるので 待っていてくださるので 安心して 遊んでいられる」
数年前の掲示板の言葉だった浅田正作さんの言葉が思い返されます。「安心して遊んでいられる」人は子供だけではなく、大人もそうであります。安心して仕事に出かけられるのも、旅行に出かけられるのも帰る家があるからであり、待っていて下さる方がおられるからです。
人生を一つの旅に例える時があります。人生の長旅は今どの辺りに来ているのかは分かりませんが、帰る所がはっきりしていなければ旅にはなりません。ただの放浪です。行き場も目的も無くぶらぶらと、ただ世を過ごしている姿を「放浪」というのでありましょうか。
今月の言葉は、親鸞聖人の御消息(お手紙)の言葉をよりどころにしてあると思われます。
「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。」 (聖典P607「末燈鈔」)
聖人は「先に浄土へ往生して、あなたを待っていますよ」とありますが、聖人のこの言葉の中には穢土という表現が見あたりません。広瀬師は「聖人は彼の土、浄土にて待つ」という言葉の中に「待たれてある私は、此の土、穢土を今生きている」ということを、浄土のはたらきから教えられたのだと思います。お浄土は私の真に帰る世界を知らせて下さると同時に、現在只今の私の姿、世の姿(穢土、煩悩に穢されている世界)を知らせて下さるはたらきも持ち合わせているのです。
そしてさらに大事な事は、私に「浄土へ行こう、歩もう、帰ろう」という気持ちも呼び起こさせて下さるということです。それもまたお浄土のはたらきと言ってよいのではないでしょうか。つまりそのこころは、自分に起こったこころではありますが、向こうの方から与えられたこころ、浄土から与えられたこころであります。
浄土で待っておられる聖人は、穢土を生きる私たちにはたらいておられます。それは浄土へ歩もうと、歩む力となってはたらいてくださるのです。親鸞聖人を「私を待っておられるお方」といただくことが出来たならば、この穢土で生きる生涯を、安心して「遊んでいられる」のでありましょう。
旅に出たら土産を買って帰らなければなりません。首を長くして待っておられる方々へ、どんな土産があるでしょうか。
(貢 清春)