苦しみがなくなるということは、苦しみを生かしていくことができるということ (蓬茨祖運)
お釈迦様は、”一切皆苦”(すべてはみな苦である。)と、私たちが人間として、いのち与えられて生きる現実を示しておられます。つまり、苦を避けて生きるということは出来ないのです。しかし、苦しみは、どこか外にあるのでは無く、現実を見ず、何でも自分の思い通りにしようとする、私たちの”執着”に原因があると教えられています。では、「苦しみを生かしていく」とは、どのようなことなのでしょうか。
今月の言葉と向き合う中で、故郷のあるご門徒さんのことを思い出しました。この方は、自坊のご門徒さんではないのですが、長年にわたり、自坊のお世話をして下さっておられたようです。私の幼い時の記憶なので、はっきりとはしていないのですが、その方は、片足で自転車に乗っておられました。後で、両親にその方のことを聞くと、生まれつき身体が不自由で小柄でしたが、いつも自転車を使って外出しておられたようです。晩年、病気を患い、病院に入院されたようですが、”家で死にたい”と言い、自宅に移り、療養されていたそうです。
そんなある時、お連れ合いのおばあさんに、正信偈の本を持ってくるように言い、布団に横になったまま、おばあさんと一緒に正信偈を読んでおられたそうです。しばらくして、ふとお勤めを止めて、寝ている布団の足元の方を差して、”そこに、お迎えに来とられる”(富山県の方言)と、つぶやいたそうです。一緒に読んでいたおばあさんは、突然のことにびっくりして、その方が差す方を見て、必死にそのお迎えをどこかと探したそうです。しかし、何も見えないおばあさんが、”どこけ?”と、その方に声を掛けると、”ごめんもらうちゃ”(これにて失礼させていただきます)と言って、間も無く息を引き取っていかれたそうです。
不自由な身体で大変なご苦労をされたと思います。それは、他人には言わない、また言えない、苦悩もたくさんあったに違いありません。長い歩みの中で、なぜ自分だけこんな目に遭わねばならないのか、と悩まれたこともあったでしょう。しかし、おばあさんに、”ごめんもらうちゃ”と言った一言には、深い感謝の気持ちがあるように思います。それは、苦労を共にしたおばあさんに対しても、自分自身に対してもと思います。長く辛い人生の中で、お念仏の教えに出会い、自分の身体や病気と向き合い、そのことすべてが、与えられた尊い身として、うなづいていかれたのではないでしょうか。
親鸞聖人は、教行信証の冒頭に、「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」と、九十年の生涯を通して、聖人ご自身が体得なさったお言葉があります。”お念仏は、自分にとって都合の悪い事を、私を育ててくださるものへと転換してくださる大きなはたらきである”と、断言したその姿勢は、まさしく、今月の言葉に繋がるのではないでしょうか。 (立白法友)