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わかっても わからんでも 念仏しなさい そして念仏から育てられなさい (信國淳)

わかっても わからんでも 念仏しなさい
そして念仏から育てられなさい (信國淳)

 今月の掲示板の言葉は、大谷専修学院の礎を築かれた信国淳先生の言葉です。実はこの言葉と先日、あらためて対面することになりました。京都の東本願寺、真宗本廟の同朋会館に住職修習の為に福浄寺の総代さまと一緒に入った時です。同朋会館の廊下には、いくつもの言葉が張り出してありましたが、この信國先生の言葉の前に、立ち止まりました。

 正直にいいますと、私はこれまで「私が念仏する理由」とか「念仏することが納得できたらいい」ということを考えていました。さらには念仏しておられる人をみては、その人の念仏の品定めをするような心もありました。「あの先生の念仏は本物のようだ」とか、「あの人のいっている念仏は中身がない念仏ではないのか」というような心です。長い間、私自身が口から「ナンマンダブツ」と声に出すことに抵抗を感じていました。

 お寺で法要が勤まるときも、御門徒の御法事が勤まるときも、念仏の声が聞こえなくなってきています。もしかしたら私と同じように、多くの人の中にも、「ナンマンダブツ、本気で信じているわけではないからいっても無駄だ」というような心が動いているのではないか、と思います。なかには正信偈のお勤めはよく声が聞こえるのに、お勤めが終わると念仏の声が聞こえてこない時もあります。正信偈の意味や中身はわからなくてもできるのに、念仏は意味がわからないとできないのでしょうか。「私が念仏する理由」とか「念仏することが納得できたら念仏する」というような私の小賢しい解釈をみこして、信國先生は「わかっても わからんでも 念仏しなさい」と声を掛けられていたのだな、とあらためて思います。

 お寺に生まれたこともあり、私は幼いころから、朝夕のお勤めをしていました。もちろん偈文の意味などわからないし、南無阿弥陀仏のいわれも知りませんでした。それでも、おしえられるがまま、「ナンマンダブツ」といったとき、私が家族で一番前の座にすわり、お勤めの調声(導師)をしたとき、祖父や祖母、父、母はとても喜んでくれました。また、盆参りで初めて訪れた御門徒のお宅でも、「よう参って下さった」と、とても喜んでくれました。そのときは単純に嬉しかったことを覚えています。しかし、成長すると「意味」や「納得」ということにこだわりだしました。

 今、この信國先生の言葉を見ながらあらためて思うことがあります。それは、たくさんの人が、私が阿弥陀仏にであってほしいと念じて下さっていたことです。そして今も「ナンマンダブツを忘れるな」ということを先生や友達、御門徒がすすめて下さっています。「念仏から育てられなさい」という促しだと、今思っています。「どうか私の名、南無阿弥陀仏を呼んでほしい」と願い続ける阿弥陀仏に、まっすぐに出あっていってほしい。念ずる仏から育てられてほしいという促しや励ましが、私が気付くずっと前からあったことでした。

 信國淳先生は、「住職道」という文章の中で「寺の生命は念仏だ、念仏こそが我が浄土真宗の寺を寺として生かし、寺として成り立たせる唯一根本の基礎だ」と語られていました。これから「住職道」を歩み続ける者として、何よりもまず私自身が念仏申すものであり続けたいと思います。 令和4年 11月 深草誓弥

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