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後ろめたい事を 秘密にしつづけると いつの間にか 正しい事にしてしまう だから いつも鏡が必要なのです

 後ろめたい事を 秘密にしつづけると

    いつの間にか 正しい事にしてしまう

       だから いつも鏡が必要なのです

 

 今、国会では「特定秘密保護法案」の成立が急がれる一方、世論においては法案成立に不安感や不信感が急速に広がっています。

  首相は法案成立によって「国民の安全が守られる」と連呼しておられますが、この法案では何を秘密にするかも秘密にされ、その秘密を知ろうとしたり、他人に教えたり、大衆に呼びかけたりするだけで連行され、処罰される可能性もあるといわれています。

  「国民の安全」を守る法案によって、私達の生活が不安になり脅かされるのならば、本末転倒です。また、国家の秘密によって日本の平和や国民の安全が支えられているのならば、この国の平和、安全は非常に不安定なのかもしれませんし、今まで日本は安全ではなかったのだろうかと不審に思う次第です。

  どうか、議員の方々には後ろめたくない、公開された政治を行ってほしいと思いますが、今月の言葉の「後ろめたい事」は私達の生活の中にもある事ではないでしょうか。例えば、つい悪い事をしてしまって他人には言えない。その事が家族にばれたら大変なことになる・・・。その様な時は「後悔」という感情が生まれます。自分のしたことが悪かったと悟ったら、今度からは絶対にしないと心に誓います。その心が「謝罪」という、他に対して自分の行為をわび、許しを求めていくこともあります。

 しかし人間にはもう一つ「肯定」の感情が生まれる時もあります。色々言ってもしようがない、仕方がないんだと。自分は間違っていないんだと開き直り、自分を正しい事にしてしまう心です。その時には罪を公開することはせず秘密にしていきます。そしていつの間にか、秘密にしている事に何の罪の意識も無くなり当たり前になっていきます。

  その様な人間の心を悲しみ、自分自身の本当の姿に目覚めてほしいと、立ち上がった仏様がおられます。それが阿弥陀如来です。その阿弥陀の教えとは、如何なる教えでありどのようなはたらきがあるのかという事を中国の善導大師は「経教はこれを喩うるに鏡のごとし。しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧を開発す」と仰います。

  お経という鏡の前に立てば、その者の心の姿や身の事実を偽りなく映し出され、その人間の心によって作り出している娑婆の姿も映し出して教えて下さるといわれるのです。お経を拝読するということは、先祖を供養するための道具でもなければ、自分の都合の良い様に欲望を叶えてくれる魔法の杖でもありません。お経はどこまでも自身を知らしめるはたらき、智慧そのものであります。

  だからこそ「しばしば読み、しばしば尋ねる」必要があるわけです。「しばしば」とは、時々たまに等の意味ではなく、何回でも、たびたびという意味です。何度も何度も教えによって自分自身の姿を確かめていかなければ、いつでも自分の行為だけが正しいのだと開き直り、あやまちに気がつかないで生きてしまいます。どんな時も私を映してくれる鏡があれば、間違いが間違いとして知られ、迷いが迷いと知られて生きていけます。

  ネクタイが曲がっている事は自分では気がつきません。教えてくれる人や鏡がなければ、まがったままで自分自身が恥をかきます。鏡を見ても、注意されても言うのでしょうか、「いいえ、これは国民の安全のためです」と。     貢 清春  平成25年12月

 

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