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他を責めるのは鬼であり 他を裁くのは閻魔であり 不足を思う心は餓鬼であり 人を利用するのは畜生である (松原 致遠)

 他を責めるのは鬼であり 他を裁くのは閻魔であり 
  不足を思う心は餓鬼であり 人を利用するのは畜生である (松原 致遠)

 今月の掲示板は、浄土真宗本願寺派の学僧の松原到遠氏(1884~1945)の言葉が選ばれています。鬼、閻魔、餓鬼、畜生という地獄の住人たちの名が出ていますが、よく見ると、私が鬼や閻魔から責め裁かれる、というのではなく、私が責め裁いている鬼であり、閻魔になっているということが否定できない日ごろの姿として教えられている言葉であることがうかがえます。

 私は幼いころ、水木しげる氏の漫画を通して、地獄の鬼や閻魔、餓鬼の姿を目の当たりにして、「地獄というこんなに恐ろしい世界があるのか」と衝撃を受けました。生前犯した罪を閻魔さまが裁判されること。罪の軽重によって受ける罰が違うことや、様々な鬼がいて様々な責め苦を与える描写をみて、自分も嘘をつくというような身に覚えがある罪を犯していることが思われ、恐ろしくなっていました。しかし、今回の言葉は「悪いことしたら地獄に落ちるぞ」ということを教えているのではないのです。現に、あなたは地獄を作り出しているということを教えているのでしょう。

 「他を責めるのは鬼」、自分を中心にして私は悪くない、お前が悪いと考える間もなく思い、行動します。「自分さえよければいい、他人はどうでもいい」という心が根っこにあるようです。こんなとんでもない心があるのに、いざ生活をしている只中では、全く気付いていません。重要なことは、私が自分の周りにいる人にどうふるまっているかで、自分が地獄の住人になるかどうかが決まるということでしょう。

 「他を裁くのは閻魔」、他人の悪いところはよく見えますが、自分の悪いところは、よっぽどのことでもなければ気が付きません。先月の随想にあったように他人が茶碗を割ると、「茶碗を割った」と、すぐさま悪いと指摘しますが、自分が茶碗を割ると「茶碗が割れた」と、さも勝手に割れたかのような、身勝手な裁判官が現れます。

 「不足を思う心は餓鬼」、満たされることのない思いを中心にして、「もっとこうしてほしい」と相手に注文ばかり。「あの人は薄情だ」といいますが、それは相手に対して自分が勝手に要求している心が先にあるからでしょう。これも他人の不足ばかり目につきますが、自分は棚にあげています。

 「人を利用するのは畜生」、他人を犠牲にして自分の利益を求める姿でしょうが、これも実際やっているときは気付けないのです。

 このように見ていきますと、毎日地獄の住人の相をあらわして生きていることにうなずかざるを得ません。「自分さえよければいい、他人はどうでもいい」という心で生きている証拠でもあります。この自己中心的な心は、反省して無くなりました、というような質のものではありません。しかし、私は「自分さえよければいい、他人はどうでもいい」というのは本当ではないな、と感じます。そして恥ずかしいなと感じます。

 自分が間違っていることを恥じるこころを失えば、もう人間にはもどれないのではないでしょうか。法語に照らされて自分の根性が明らかになり、「恥ずかしい」と感ずる心がある限り、人間の品位が保たれるのではないでしょうか。 令和3年 6月 深草誓弥

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