ロゴ:福浄寺

トップイメージ1 トップイメージ2 トップイメージ3

かれあれば これあり 子あれば 親あり 亡き人あれば 生者あり 私だけでは 存在しない 

かれあれば これあり 子あれば 親あり
  亡き人あれば 生者あり 私だけでは 存在しない

 2006年、京都の大谷専修学院の学院長を務められていた竹中智秀先生が還浄されました。おりに触れて先生がおっしゃっておられた言葉が思い起こされてきますが、今回の掲示板の言葉を見て、「個人は幻想ですよ」と語っておられたことを思い起こしました。この個人というのは、自分を中心に据えて生きているもののことを教えられています。

 私たちは、日ごろ自分というものがまずこちら側にあって、その自分のむこう側に世界があり、そこに他の人々が居て、そこでいろいろな物事が起こっているし、また、ときには、むこう側に自分の人生をおいて思い通りになっているかどうかと眺めています。このような「自分というものがまずそれだけで在って、それから自分の生活が始まると思っている」私たちのあり方を竹中先生は「幻想ですよ」とおっしゃられたのだと思いますし、今月の掲示板にある「かれ(彼)あれば これ(此)あり」とは、世界(彼)と自分(此)を切り離して、自分だけが単独で存在しているのではない、ということを教えてある言葉です。そのことを次の言葉では「子あれば 親あり」、子供が誕生することが、親が誕生するときであるという言葉でさらに開いてあります。

 そのあとには、「亡き人あれば 生者あり」という言葉が続きます。これはどういう言葉でしょうか。私たちは様々な形で死にふれます。新聞やテレビで縁が遠い人の死にふれたり、親しく縁を結んだ人の死にふれることもあります。そこでの死へのまなざしはどうなっているかと問えば、やはり自分とわけ隔てた他者の死として映っているのでないでしょうか。「自分は生者 あの人は死者」というまなざしです。このことを問うのが「亡き人あれば 生者あり」という言葉でしょう。

 蓮如上人の『御文』のなかに「疫癘の御文」とよばれているものがありますが、このようなことが語られています。「近ごろ、伝染病がはやって人が亡くなっていっている。だが、それは伝染病のせいで亡くなったのではない。死は生まれたことによって当然おこりうることだ。だからそんなにおどろくことはないのだ」それに続けて、「だがこんなときに亡くなれば、やはり伝染病のせいで亡くなったと皆思う。それももっともなことだ」と。

 この『御文』に教えられることは、私たちが普段考えている「死因」はあくまで、死の縁であり、その縁、条件は無量無数で、「あの時こうしていれば」というような自己中心的な思い、計算が間に合わないものだということでしょう。そして本当の死の因は「生まれたこと」であるということです。「死は生まれて生きるものの身の上に必ず起こってくることである」このことを私たちは葬儀というかたちで、その道理をその身でもって教え、若くても年老いてもその人生を全うした人として大事に思い、その人を敬ってきたのだと思います。

 残された私たちは、亡き人から、生きている私たちも、いつ死が訪れるかわからない身であることを知らされます。だからこそ、この世に生を受けた意味を明らかにしようという意欲が呼び起こされるのでないでしょうか。死者から、死と生は一枚の紙の裏表であると教えてもらった、その大きなまなざしのなかに生きるとき、本当に生きるという歩みがはじまってきます。

         深草誓弥

関連リンク