ロゴ:福浄寺

トップイメージ1 トップイメージ2 トップイメージ3

「空過」 もし健康と長生きだけが幸せだとするならば 最後は死という不幸で終わっていく そこに本当の幸せがあるだろうか

   「空過」

   もし健康と長生きだけが幸せだとするならば

     最後は死という不幸で終わっていく

      そこに本当の幸せがあるだろうか

 私達が日頃から大切にしているものの一つに「健康」があります。しかしこれも度を過ぎると「健康のためなら、死んでもいい」となるそうです。冗談の様ですが、健康を獲得し維持する為に死にものぐるいで様々な健康法を試し、健康食品を買いあさっていく。よくよく考えると、健康が崩れ去る恐怖に怯えながら生きなければならない、その様な姿は傍から見ると「不健康」なのかもしれません。

 しかし、自分もいつかは死ぬのだという事を忘れているわけではありません。でも死を迎える瞬間は「ピンピンコロリ」を望んでいると聞きます。息が切れる直前まではピンピン元気で、誰にも迷惑をかけず、苦しみもせず、コロリと一瞬で逝きたい。笑い事のようですが、そう願っている人は少なくはないと思います。

 この様な言葉が生まれてきた背景には、生きること健康にのみ意味があって、老いること・病むこと・死ぬことは敗北だとする現代の価値観が、そう言わせているのかもしれません。

 そういう価値観が生まれる原因の一つとして、日常生活の現場から老・病・死が姿を消しているということがあげられます。核家族化が進み老人とは別居。病気で寝込むこと事があれば病院へ。死に逝く姿、臨終の場面でも自宅で身内に囲まれながら看取られる事はほとんど無くなりました。現代に於いて老・病・死はすでに家の外の事で、肌身で感覚し確かめる場面が少なくなったのだと思います。しかし、どんなに我が身体に執着して健康に気をつけても、死は自ずと訪れます。「人生は長生きに意味がある」「健康こそが第一だ」という価値観は本当なのでしょうか。

 お釈迦さまは、生後わずか1週間ほどで母マ―ヤ夫人と死別され、29才の四門出遊という場面では、老・病・死という人間の苦しむ姿を見て出家を決意したと記されています。死別の悲しみ、老病死する不条理な姿を見られたお釈迦様は6年後、悟りを得て仏陀となり「諸行は無常であり、すべて移り変わる」と教え示されました。無常の我が身は老・病・死し、自分の思い通りにはならず、苦しみの人生を生きるのだとも教えて下さいました。

 そう教えられていながらも、我が身の「無常」という、老・病・死の人生の事実に立つことができず、「無常」の事実に対して善し悪し、好き嫌い、苦か楽か、幸か不幸といった分別を加えてしまいます。

 その様な私達に親鸞聖人は、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と和讃されています。あなたの人生を不幸のままで終わるんですか、空しく過ぎない人生がすでにお念仏によって開かれていますよ、お念仏に遇いましょう、本願のはたらきに出遇いましょう、と呼びかけて下さっています。

 本願のはたらきに出会えば、無明の闇がやぶられると教えられます。無明とは、真実に暗く、人生を指し示す明かりがなく、本当でないことを本当にして生きている姿を言います。その無明の闇が破られるということは、自分の考えを絶対とする在り方や、自己中心の分別で生きる自らの我執が知らされるということです。

 思い通りにはならなくても、どのような苦難の人生でも、我が身を救わんとする如来の本願のはたらきに頭が下がることがあれば、老・病・死するわがいのちを不幸と決めつけずに、生き抜いて行けるのだと思います。それこそが人生における幸せであり、空しく過ぎない生き方ではないでしょうか。

            貢清春

関連リンク