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「無量寿」 自らも生き 他を生かし続ける いのち

平成22年8月

「無量寿」 自らも生き 他を生かし続ける いのち

 いのちの尊さ大事さが分からない、いのちが粗末に扱われてゆくと言われて久しい現代、いのちを大事にする、いのちの尊さを知るとはどうすることを指すのでしょうか。

 「健康で長生きすること」がいのちを大事にすることならば、若くして亡くなられた方や病気の人はいのちを粗末にした事になります。この身、体というものは千差万別であって人それぞれ違います。生まれ持ったものも違いますし、能力や力量もそれぞれ違うわけでしょう。「健康で長生き」がいのちを大事にすることにはなりません。我々の存在は縁によって成り立っていますから、病気の縁が来れば病気になりますし、死の縁が来れば死を迎えます。諸行無常のいのちであることは平等です。しかし人間は自分の都合によって自分の価値を分別していきます。都合の良い身体であれば他と比べて優越感にひたり、都合が悪くなれば「こんなはずじゃなかった」と劣等感にさいなまれ、最後の死を「不幸」で終わってしまわなければなりません。では「無量寿なるいのち」とは一体どういう事でしょうか。

 正信偈の冒頭には皆さんもよくご存じの「帰命無量寿如来」のことばがあります。無量寿(はかりなきいのちの仏)に目覚めよ、という意味です。無量寿とは阿弥陀仏のことをいい、梵語アミターユスの訳で「はかりなきいのち」ということです。今月の掲示板の言葉は、その無量寿なるはかりなきいのちが、自ら生きて他を生かし続けているとあります。生かし続けるいのちとは、自分自身がいやになっても、寝ている時も、煩悩に迷い苦しんでいる時も私の思い計らいに関係なく、私を根底から生かし続けるはたらきがあるということでしょう。私を根底から支えているものは沢山ありすぎて言い表すことが出来ないために、そのいのちを無量寿と言い表したのでしょう。

 絵本「いのちのまつり・ヌチヌグスージ」の作者、草場一壽さんはこうおっしゃています。
  時空を超えてつながっている「いのち」は目には見えません。
  それを支えてくれている「おかげさま」も目には見えません。
  見えないものを感じる力を育まなければ、
  なぜ「いのち」が大切なのかも感じられないと思うのです。 と

 無量寿のいのちは目には見えません。目に見えるものはいのちのはたらきを受けた身体です。しかしその身体は無常なために有限です。限りある私のいのちは目には見えない言葉に表すことの出来ない無量なるいのちに生かされてある、だからこそ自分が出来る精一杯の限りを尽くして生き、終には無量のいのちに帰って行く。無量寿のいのちのはたらきを平等に受けている私達は、共なるいのちを生きておるところで自他の尊さが知らされてくるのではないのでしょうか。

宗祖七五〇回御遠忌法要のテーマソング「今、いのちに目覚めるとき」の三番の歌詞です。
「辛い涙に暮れる日は 決して尽きないけれど
 私が絶望しても 私を見捨てないものがある
 私を生かすはたらきに 目覚めたときから生きられる
 このかけがえのない私に いのちが今、かがやく」

貢清春

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