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私が 私の 存在の背景を知るということが 恩を知るということである

 

      私が 私の 存在の背景を知るということが 恩を知るということである

 

 幼な児がお盆にお茶をのせてヨタヨタと運んでいる。後ろからは母親が付いて回り、背後から幼な児のお盆を持ってお茶をこぼさないように手助けをしている。幼な児はきゃっきゃっと笑いながらお茶を運んでくる。このような姿をお参りの時に目にすることがあります。

 大変ほほえましい光景です。幼な児は自分でお茶を運んでいる事が嬉しく、楽しくてたまりません。しかし目の前のお茶のことで精一杯で、自分を支えている背後の親の働き、心配などは気付きもしません。

 この幼子の姿を通して私の日常を知らされる気がします。いつも自分の力だけで何でも出来て、その事を誇りに思い、背後で支えているはたらきに全く気付こうとしない。「自分が働いているから飯が食えるんだ」「自分が我慢しているから家が丸く収まるんだ」等々・・・。「自分が○○しているんだから」と、いつも慢心を起こし、傲慢な生き方しかしていない私の姿が知らされます。その様な思い上がりの心では、今ここにある自分を成り立たせておる歴史や背景を見失ってしまいます。

 では、私の存在の背景を知るにはどうすればよいでしょうか。振り返って見ればいいのですが、自分の目で、自分の知恵才覚で知ろうと思ってもそれは容易ではありません。自分の力で「見た、分かった、知った」としても、分かったところは自分の思いや知識の範疇であって、それ以上のことは分かりません。狭く浅いところしか見ることは出来ません。

 私たち真宗門徒は、聞法を生活の基調としてきました。仏法を聴聞し教えを聞き開いていくことは、人間の知識や常識を超えて、仏の目線から私や世間の姿を知らせていただくことであります。聞法を重ね、仏によって我が身を教えられていくことが、私の存在の背景も知らされていくことになるのでしょう。その営みにおいてこそ、私を成り立たせている全ての背景を恩としていただけるのだと思います。

 身に受けているご恩の数は、数えることが出来ないくらい深く広いものです。この娑婆に生まれてきた事も、お念仏のご縁に出会い称えさせて頂いている事もご恩です。親鸞聖人は我が身を照らし、念仏の教えに導いてくださるはたらきを「如来大悲の恩徳・師主知識の恩徳」と尊ばれ敬われました。そのはたらきに目覚める中で、ご恩に応えていこうという生活の歩みが始まります。

 この度、1月に勤まりました御正忌報恩講のご案内の中には、暁烏敏師の言葉として

「一年三百六十五日、一日として報恩の日で無いのはない。毎日が報恩講である。その報恩講の最も根本的なるものが親鸞聖人の御恩に対する報恩講である。・・・・毎年報恩講を営むことによって生活のよろこびと力とを鼓舞せられることである。」

とありました。この一年間も、お寺として沢山の法要を勤めて参ります。福浄寺の一年間の法要は、1月の御正忌報恩講にはじまり、12月の門徒報恩講に終わるという行事日程です。同じ様に、一日一日も報恩にはじまり報恩に終わる、その様な毎日を送って参りたいです。

              (貢清春)

 

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