智慧というのは 頭がいいということではない
事実を事実として 生きていける力であり 勇気なのです(宮城 顗 しずか)
今月の言葉を見て、赤塚不二夫さんの代表作「天才バカボン」に出てくるバカボンのパパの有名な決めゼリフ「これでいいのだ」という言葉が浮かんできました。漫画では、どんな事件が起ころうとも、決して良くはないだろうと思われる場合でも最後はこのセリフが登場し、物語が一件落着します。何か開き直った口癖の様に思いますし、場合によっては不謹慎な言葉にもとらえられます。しかし私達もバカボンのパパの様に、「これでいい、このままでいい、私は私でいいのだ」と素直に受け止め、自由自在に生きれたらどれほど楽だろうかと感じます。
仏教では「智慧」と「知恵」を分けて考えます。智慧とは仏智、仏のさとりの智慧の事を云い、知恵とは人間の知恵分別の事を意味します。世の中を渡り歩いていくためには「知恵」は必要ですが、人間の知恵は善し悪しの思いにとらわれて、かたよった人間のはからいであると仏教は教えます。現代は様々な情報に触れる機会が多く、みんなが賢くなり、知識が膨れ上がった状態ではないでしょうか。子供達は先生からも親からも賢くなることを勧められ、頭の良い子はもてはやされるので、ただひたすら試験勉強に明け暮れています。しかし試験で良い点を取ることと、人生を生ていく力と結びついているかは疑問です。いつも理想の自分、未来予想図を描き、「これではダメだ、今のままではダメだ」と、常に今の自分を否定して生きているようにも感じます。そういう人間の知恵の中から「これでいいのだ」と云う言葉は決して出てこないのです。
実はこの「バカボン」という名前の由来は、古いインドの言葉で「バガヴァン」という言葉から名付けられたのではないか伝えられます。この「バガヴァン」とは「大きな徳を有する者」、または「煩悩を滅した者」などの意味があり、中国では「婆伽婆(バカバ)」「薄伽梵(バカボン)」と音写されました。そしてこのバカボンという名前は、仏陀となられたお釈迦様の称号なのです。作者は、どんなことが起きようとも「これでいいのだ」とすべてを受け止めていくバカボンのパパの生き様に、お釈迦様の悟りの智慧を代弁させたと考えると、この漫画がとても味わい深くなります。
また、天才バカボンに登場するレレレのおじさんは、お釈迦様のお弟子であった「周梨槃特(しゅりはんどく)」がモデルであるとも云われます。周梨槃特という人は、自分の名前さえ記憶出来ないほど、物忘れのひどいお方だったそうです。お覚りの言葉を覚えることの出来ない周梨槃特にお釈迦様は、ホウキを渡し掃除をする行を与えました。「塵を払い、垢を除かん」と言いながら毎日毎日掃除をしている時に、塵や垢は自分自身の煩悩であり、汚れていたのは自分の心であったと悟り、神通力を得たと伝えられます。
宮城顗先生がおっしゃる様に、仏教における智慧というのは沢山の言葉を覚えて賢くなることではありません。現在ただ今の自分の姿を教えられ、どの様な私であっても生きる意味を与えられ、生きていることの尊さを実感することにあるのだと思います。事実を事実のままに受け入れたら、あなたはあなたのままで尊い存在であって、他の誰になる事もないのです。若い時は若さを謳歌すれば良いし、年をとれば年をとった所で役割がある。病気になれば病人になっていればいいし、健康になれば健康の有り難さを感じれば良い。そして死ぬ時が来れば素直に死んでいけば良いのだと、そのままの今の自分にいつでも帰っていきなさいということです。仏教の教えの根本は実にシンプルで、これより他にはないのです。 令和5年 4月 貢清春