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誰もが安全でない限り、誰も安全でない

誰もが安全でない限り、誰も安全でない

 昨年2020年9月22日、新型コロナウイルスが世界で猛威を振るう中、第75回国連総会の中で、アントニオ・グテーレス国連事務総長は次の様に演説されました。「国連は世界保健機関(WHO)を中心として、特に開発途上地域の各国政府に対し、命を守り、ウイルスの蔓延を抑えるための支援を行い、130を超える国々に対する個人用防護具やその他医療物資の提供を支援している」「どこでも物理的にも価格的にも入手可能な、人々のためのワクチン開発に向けた取り組みを支援している」と、新型コロナウイルスに対する活動を報告される一方で、

「しかし、自国民だけがワクチンを手に入れられるよう、裏取引をしている国があることも報じられています。このような『ワクチンナショナリズム』は不正だけでなく、自滅にもつながります。誰もが安全でない限り、誰も安全でないことは、周知の事実だからです。」

 『ワクチンナショナリズム』とは、コロナワクチンを一部の国が独占しようとしている政治行動で、欧米や中国など裕福な国が製薬会社に巨額の資金を投入しワクチン開発を促進した上で、自国民に優先的に提供する政治的な動き(自国第一主義)のことを意味します。その結果どうなるかというと、中・低所得の国(発展途上国)のワクチン接種が何年にもわたって後回しとなり、最も貧しい地域の多くでコロナウイルスの蔓延が続き、世界的大流行を長引かせることになると予測されます。結果、先進国の感染者は減少しても、世界全体では感染者が増え続け、結局は「自滅」につながっていくというのです。こういう時だからこそ裕福な国が主導となって国際的な協力体制を掲げ、国境を越えてワクチンが行き届くような取り組みが求められています。自国さえ安全だったらいいとワクチンの争奪に各国の指導者は躍起になっているのでしょうが、「誰もが安全でない限り、誰も安全でない」のです。全世界の人々が安全安心な状態にならなければ、自国の安全安心は無いのです。国のトップに立つ指導者の方々には、是非正しい選択をしていただきたいものです。

 しかしこの、ワクチンナショナリズム的な考え方は、他人事とは思えません。一時期からすると長崎の感染者数は減少傾向となっているので、自分はコロナに感染しないだろうと、他人事の様に思っていまが、ワクチンが行き届かない国の人々の不安などは考えてもいません。自分や家族さえ助かればいい、自分の住む地域さえ安全ならいいと、狭い範囲しか見ようとしない自分がいます。その様な生き方は、我が思いが満たされればいいという「自国」ならぬ「自分第一主義」の生き方ではないでしょうか。

 自分第一主義な在り方から離れることの出来ない私達に対して阿弥陀如来は、「悲しむ」という眼差しで見つめておられます。大谷専修学院の院長先生であった竹中智秀先生は、阿弥陀如来の摂取不捨のはたらきを「えらばず、きらわず、みすてず」と教えて下さいました。先生は、阿弥陀如来はいつでも、どこでも、だれにでも、その願をもって私に呼びかけ続けているのだと仰っておられました。だからこそ私達も呼びかけに応え、念仏の教えによって我が身が照らされていく事が大切なのだと知らされます。

 これからの時代、コロナが収束しても、以前の生活様式に完全に戻ることはないだろうと経済学の中では予測されています。今までの歴史や社会の姿は、自分や人間の生き様をうつす鏡の様なものですから、注意して見て選択していかないと、また大変な時代がやってくるかもしれません。何をもって安全なのか、安心な生活とは一体どういうことなのか、教えに尋ねていきたいものです。 令和3年 7月 貢清春

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