宗教のことばは時代をこえてひびき
科学のことばは時代とともにかわる (東昇『力の限界』)
今月の掲示板の言葉は東昇(ひがしのぼる)の言葉です。東先生はウイルス学博士、自然科学者でありながら、一方で鹿児島の真宗門徒の家庭に育ち、自らも京都大学在学中に池山榮吉氏と出遇われ、浄土真宗に帰依して生きられた方です。科学者として当時最先端の現場に立っておられた東氏が、「科学のことば」ではなく、「宗教のことば」に普遍性を感じて語られている言葉ですから、重みが違うように感じます。
この掲示板の言葉にふれて思い起こされた安田理深先生の言葉があります。
「そもそも仏教という宗教は、人間に何を与えたのか。それは内観の道ということを教えた。それ以外に教えたものはない。世界というものが如何にゆきづまっても絶望もせず、開けても安心もせん。つまり世界というものを結論としないということです。世界というものを、いつでも縁として、機縁として自己を深めてゆく。ゆきづまったことを結論とせず、ゆきづまったことを縁としてさらに自己を深め、自己を深めたことによってその難関を超えていく、そういうのが内観の道というのです。困ったから困らないようにする、そういうのは外観の道というものです。困ったことを困らないようにするのは科学の道です。内観という道を聞法というのです。」(『内観と念仏』安田理深)
ここで安田先生は「困ったことを困らないようにするのは科学の道」と押さえておられます。この「科学」の受け止めは東先生の受け止めと通底しているものがあるように思います。
私たち人類は現在、コロナウイルス感染症という大問題を抱えています。今、多くの人の関心はワクチン接種がいつになるのか、安全性は問題がないのかというところに集中しています。なんとか人間の知性の集大成である科学でこの問題を解決しようとしているわけですが、一方では変異株が現れ、それに有効なワクチンを作るのにまた時間を要するだろうという問題も起きています。また新たなウイルスが誕生することもあるでしょう。このことは、私たち人間の知性では解決できない問題が絶えず私たちの生きているこの世界にあるということを証明していることのように思います。
先日報恩講の講師としてお話しくださった伊藤元先生が繰り返し次のように語られました。
「私たちがすくわれるのは思い通りになってすくわれるのではありません。道理を受け取ってすくわれるんです。困った問題を除くのではありません。むしろコロナを通してこの世はどういうところかと教えてもらってはじめて生きていく力になるんです。」
現代に生きる私たちはあらゆることに答えを持ち、「たずねる」、「仰ぐ」という姿勢を失っています。自らの思いを満たすことにのみ明け暮れ、世の道理に背を向け生きる生き方はまさに「時代とともにかわる」、気分で生きているような生き方でしかないのでしょう。「時代をこえてひびき」、伝えられてきた経典の書き出しは「如是我聞」です。「私はこのように聞きました」という意の言葉ですが、そこには人間の傲慢さを打ち破り、うなずかざるを得ないような言葉と出会った感動が込められています。 令和3年 2月 深草誓弥