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亡き人を なぐさめ しずめると 思っていた私が 亡き人に 養われ 願われていた

亡き人を なぐさめ しずめると 思っていた私が
  亡き人に 養われ 願われていた

 今月の掲示板の言葉は、生きている私たちと、先んじて命を終えていった亡き人との関係について問う言葉です。まず初めに「亡き人を なぐさめ しずめると 思っていた私」ということが述べられています。

 「しずめる」といわれていることは鎮魂ということです。たとえば葬儀の際、亡くなった人が出ると塩をまいたり、出棺の時棺を回したり、火葬場の道を変えたりということがいわれますが、これが鎮魂儀礼ということです。しかし、「安らかにお眠りください」という鎮魂ということの裏には、縁ある人の死に際して悲しみながらも、自分に死、不幸、悪いことが来ないようにという人間の自己中心的な意識が隠れているように思います。

 次に「なぐさめる」といわれていることですが、これは「慰霊」ということを指しているように思います。死者の霊魂の存在を認めることのない仏教に、死者の霊を慰める儀式はありません。しかし、人間は純粋なものではありません。生前の関係のなかでの思いが亡くなった人を「なぐさめる」ということを求めます。孝行ができなかった後ろめたさがあったり、亡き人に対して申し訳ないという思いがあったり、ことによっては「恨みを持って死んでいったのではないだろうか」と思われたりもします。そこから、のろい、たたりを恐れて、霊を慰め、冥福(死後の幸福)を祈るという慰霊ということがなされてきました。そして「しずめる」、「なぐさめる」ことが亡き人を供養することだと受け取られていますが、はたしてどうでしょうか。

 本来、供養とは、「仏・法・僧の三宝、及び父母・師長に食物・衣類等を供給すること」をいいます。「仏・法・僧の三宝」は私たちに真の生まれた意義と生きる喜びを見出させてくださる人生の宝です。「父母」は私の大切な心身を養育してくださった親です。そして「師長」は教えを授けてくださった恩師です。私たちは供養ということで、私たちの心身を護持養育してくさった大切な宝や人々を敬い、尊ぶということを大切にしてきました。

 私が供養について考えていく一つの道しるべにしている言葉があります。

  供養とは 亡き人に心配かけない生き方を見つけることなんだ。そのために仏法を聞くんだ。心配かけない生き方とは一人一人が自立していくことなんだ。  藤元正樹

 亡き人を供養するということは亡き人が残してくださった無言の問いかけをうけ、真の自己に目覚めることでないでしょうか。亡くなった人は単に亡くなったのではなくて、人生の最後の相を白骨になって見せてくださっています。そこには「あなた自身はいつ何時亡くなるか分からないけれども、いつ命終えても生まれてきて本当によかったといえる生き方を見つけていますか」という無言の問いかけがあるのです。

 「亡き人に養われ願われていた」という言葉は、仏法を聴聞するなかで、亡き人と今を生きる私と共通の根本問題に目覚めたところに聞こえてくる言葉でないでしょうか。私達が求めているのは、なんでも思い通りにいく世界ではありません。どういう人生であれ、賜った人生を人のせいにしたり、何かがたたっているからといわないで、ひとりだちしていける道をこそ、求めているのです。  深草誓弥

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