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私共の生活は  恩をうくる生活であると同時に 恩に報ゆる生活である  (暁烏 敏)

平成24年1月

私共の生活は
 恩をうくる生活であると同時に
  恩に報ゆる生活である  暁烏 敏

 今年も例年の如く、御正忌報恩講を厳修させていただきました。準備の時から沢山の方々のお手数とご懇念を戴いて御正忌のご縁が勤まる事に、この法要に込められた深い願いを感じさせられます。

 しかし毎年の事ですが、御正忌報恩講が終わると「やれやれ疲れた、やっと終わった」と、”終了した大変な行事”として通過してしまうものがあります。毎日が報恩の生活であったと頂戴する御縁になるどころか、報恩講と”来年までさよーなら”してしまう自分が見せらる次第です。

 今月の言葉は、御正忌報恩講の案内の文章の中の言葉です。この掲示板の言葉に続いて、

「この事を教えて下さったのが親鸞聖人である。聖人の教えが無かったら私は恩の中に居ながら恩を知らないでいたことである。これによって思うに聖人が私のうけている御恩の根本である。」

と暁烏先生は記されています。親鸞聖人の教えに出会わせていただいた事によって、御恩を知らせていただいた、聖人が御恩の根本だといただいておられます。報恩の「報」は、「むくいる、受けたことをお返しする」という意味と同時に、報告とか報知という「しらせる」という意味もあります。よって報恩とは、我が身に御恩をしらされ、それを他に知らせていくというこころも表現しているのでしょう。

 今、人生の最後を迎えようとするお年寄りの中で「遺品整理」への関心が高まっているそうです。家族がいても自分が死んだ後の遺品整理を、業者に生前予約している人も少なくないそうです。そうした方々は口々に「仕事が忙しい子どもには頼れない」「他人に迷惑をかけたくない」と仰ります。そうせざるを得ない事情が様々有るのかもしれません。「絆」という字が去年を代表した一年でしたが、その人間同士の「絆」も迷惑をかけるから・・・と言って、遺品と一緒に業者に捨ててもらっては寂しいものを感じます。

 他人を頼ったり頼られたりする事を拒み、自分の事はお金を払ってでも自分で決着しようとする現代人の姿が、無縁社会の世相をより拡大させていく傾向にある様に思われます。「御恩」とか「恩を感じる」等の言葉は、もはや必要ない古くさいワードになってしまっているのかもしれません。

 今から800年前を生きた親鸞聖人は、生涯如来大悲の恩、師主知識の恩を知り感じながら生きた人であります。その聖人の教えを聞けば聞くほど、私達は御恩を受けていることを教えられ知らされます。聖人から教えていただいた御恩を知れば、報恩生活の歩みが始まります。代わり映えのしない、当たり前の日常生活が、報恩生活へと変革させられ、「毎日が報恩講」として戴く歩みが始まります。

 それは有り難い感謝の毎日を日暮らしすると同時に、日々の生活を当たり前にして生き、御恩など感じ得ない生活をしていた、自分自身の申し訳なさを感じる事も報恩講のお働きでしょう。

 暁烏先生は、「毎年報恩講を営むことによって、生活のよろこびと力とを鼓舞せられることである」と仰います。我が身の生活を、恩を受け報ゆる生活であると受け止め、それが生活のよろこびとして頂けるような日々を今年は勤めていきたいものです。

(貢 清春)

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