泥に生き 泥に染まらぬ 蓮の花 「いのちのことばⅡ」
この梅雨の時期、福浄寺の境内には蓮の華が咲きます。とある御門徒の方が、レンコンと泥を入れた数個の火鉢を御寄進して下さり、ここ数年きれいな蓮の華が私たちの目を和ませてくれます。昔はこの川棚の地も蓮畑が数カ所あったのですが、スーパーが建ち、家が建ち、管理する人がいないなど、今ではほとんど残っていないので、蓮の華を見る機会も減ってきています。また、蓮畑はどろどろした沼地なので夏には蚊が大量に発生します。近くの住人にとっては嫌な存在でもあります。
「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」
これは『維摩経』(ゆいまきょう)というお経の言葉を、曇鸞大師が『浄土論註』に引用されています。このお経にある高原の陸地とは、からっとしてさわやかで住みやすい、私たちが理想とする快適な土地です。しかしその様な場所には蓮の華は育ちません。蓮華はじめじめとした湿気の多い泥田を大地にして成長します。この事から蓮華は「淤泥華(おでいげ)」と云う別名もあります。
また、親鸞聖人の『入出二門偈頌文』においては、
「これは凡夫、煩悩の泥の中にありて、仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。」
とあり、泥のことを「煩悩の泥」と喩え、華を「正覚(さとり)の華」と喩えられます。私たち凡夫の日常は「貪り、怒り、腹立ち」等の煩悩のこころを起こし、振り回されながら生きています。毎日様々な煩悩がわき出てきて、煩悩を起こさなかった日は、今まで一日たりともなかったのではないでしょうか。聖人も「命終わるその時まで煩悩は消えることはありません」と云われます。その様な世界に身を置きながらも、凡夫が汚れの無い仏の正覚、さとりの華を生ずることが出来ると説かれます。しかしこの煩悩の身のまま、正覚(さとり)をいただけるというのは、何か矛盾したことのように感じます。
『仏説観無量寿経』には「若念仏者 当知此人 是人中分陀利華」と説かれます。もし念仏する者があれば、その人はこの世の中にあって、美しく咲く白蓮華(分陀利華)であるという意味です。また、善導大師はこの念仏者のことを「妙好人、上上人、希有人、最勝人」とも讃歎されています。この煩悩にまみれた世にあってお念仏をいただく人は、すばらしい人、まれな人、最もすぐれた人として、この世に咲く白蓮華の様だと讃えておられます。
様々な苦悩を身にうけ、悩み多きこの煩悩の世界にありながらも、お念仏はこの煩悩の泥に汚れることはありません。なぜならこのお念仏は、仏のお心そのものだからであります。念仏は、私が称えるものではなく、「わが名を称えよ」と阿弥陀仏が私に呼びかけている願いの声なのです。その呼びかけの声に応えて私たちは「南無阿弥陀仏」と申しているのです。合掌して南無阿弥陀仏とお念仏申すなかに、無量の願いがあり、先達の歴史があり、響きがあります。だからこそ念仏者を、この煩悩の泥の中に咲く白蓮華(分陀利華)であるとおさえられるのであります。たとえ煩悩を起こしても、煩悩を起こす我が身の為のお念仏だったと、阿弥陀の願いをいただく事が出来るのです。
今月の言葉の様に、蓮の花は泥に根を張ってはいますが、咲いた華は泥色ではありません。いつも世間という泥にまみれて生活している私たちですが、境内に可憐に咲く蓮の華が「念仏称えているか?、呼び声を聞いているか?」と問いかけているようにも感じます。 (令和1年7月 貢 清春)