称えさせて下さる お方がなくて
この罪悪のわが身が
どうして佛のみ名を 称えることができようか
徳龍
この度、10月26、27、28日と、福浄寺において親鸞聖人750回御遠忌法要を厳修いたします。御遠忌法要をお迎えするにあたり、「親鸞聖人とは誰であったのかを確かめながら、聖人の遺教に自身の相をたずね、言葉になった聖人に遇い、念仏もうす身とならせていただくことが、御遠忌という仏事を勤めるということの意義である」と、先学から教えられていることを、あらためて噛み締めています。
親鸞聖人は、浄土真宗を「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」教えであると顕かにされました。
念仏は念じたもう仏を念ずることです。「我が名を称するものを迎え取らん」という阿弥陀如来の摂取不捨の本願が念仏として私に届けられ、その念仏にいかにいきることが空しくない生を生きることになるのかを聞く。如来の本願は「しからしむる力」、私たち一人ひとりの存在が根源から求めている、「いのちの願い」です。
掲示板の言葉にある「罪悪のわが身」とは、その「いのちの願い」に背く私たちのすがたを「罪悪」と教え示されている言葉であろうと思います。私たちは「邪見驕慢悪衆生」と『正信偈』に教えられるように、自分の考えに固執して、このうえないと思い、他を理解せず、断絶を起こす「邪見」をそなえ、他人と自分を比較し、自分を愛し守り続けようとする「驕慢」の心をもっています。
その「邪見驕慢」の心が、生活をおろそかにします。自分の思いを中心として善し悪しと分別し、「こうなればいいのに」とその思いの満たされることを求め、自分の思うようにならないときは「これは自分ではない」と思いの世界に沈み、思いどおりになるときは何もかもが自分の思うようになるようにふるまいます。これらの生き方はどちらも「自分の思いの世界」を生きるもののことで、その自分の「えらび、きらい、みすてる」思いが自分も他者も傷つけていきます。
「称えさせて下さる お方」とは、そのような自分の思いを信じて生きる者に、その自分の思いが自分も他者も生きさせない原因であることを知らせ、阿弥陀如来の摂取不捨の本願、「えらばず、きらわず、みすてず」の心こそが真実であるとうなずく南無阿弥陀仏という信心こそが、どのような現実であっても引き受けて、生きていくことのできる、存在そのものがもつ力であることを呼びかけてくださる人です。
その呼びかけを竹中智秀先生は「現実に目をつむるな、逃げるな、現実を受け止めて、踏みとどまって、そこで本当にしなければならないこと、したいこと、できることを確認し、そのことに力を尽くして苦労して生きていけ」と教えられました。その先生の呼びかけをうけて、私も念仏を申そうと思うのです。 (深草誓弥)