「浄土」とは「お前はいかなる世界を生きているのか」と問う言葉
3月になり、今月はお彼岸を迎えます。真宗門徒は、彼岸を彼の岸、阿弥陀如来の浄土をあらわす言葉としていただいてきています。今月のお寺の掲示板に選んだ言葉は、その浄土についての言葉です。
お釈迦さまによって明らかにされた仏教は、人間が真実に生きるということはどういうことかを私たちに指し示す教えです。多くの仏伝が伝えているように、お釈迦さまは、国王の子、王子として生まれてこられました。しかし、「老・病・死を見て、世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」(『仏説無量寿経巻上』聖典3頁)とあるように、お釈迦さまはこの世の生活そのものに疑問をもたれ、出家されます。現実生活の中で感じた問いをもって、国、財、位を棄てて求道をはじめられます。
人間の現実生活の中での問いや矛盾。それは、たとえば「生きるために、他のいのちを犠牲にしなければならない」ことであったり、「必ず死をむかえるのに、どうして生きなければならないのか」ということです。このような現実生活で抱える矛盾と仏教が示していることは、本来分けることのできないことだと思います。
ところが、現実生活と深く関わりあっているはずの仏教の言葉が現実生活から切り離されてしまっているように感じるのです。それは現実生活の矛盾を私たちが直視することを避け、空想的、観念的な「いやし」のようなものを仏教に求めた結果、生じたものではないでしょうか。先ほど挙げた、お釈迦さまの出家は、現実生活を捨てたというような単純なものではないと思います。
浄土という世界が建立されていく出発点を、『仏説無量寿経』の法蔵菩薩の物語に見ることができます。注目すべきは、その法蔵菩薩の浄土荘厳の発起もまた、「国を棄て、王を捐(す)てる」ところからはじまっていることです。「棄(捐)てる」といわれるのは、「国」と「王」を徹底的に問題にするということではないでしょうか。浄土が建てられていく根っこには現実生活の「国」を問題にし、新しき「国」を求めた法蔵菩薩の精神があります。私たちの現実生活を地獄(戦争)、餓鬼(欠乏)、畜生(恐怖)と押さえ、法蔵菩薩は地獄、餓鬼、畜生のない国、浄土を建立しようと四十八願の第一願をたてられています。ここにあらためて、浄土は私たちの現実生活と切り離してあるのではないと思うのです。
ロシアによるウクライナ侵攻がはじまって一年が経過し、なおも戦争は続いています。報道では、戦争がはじまって世界的な飢餓(欠乏)がおこると伝えています。深刻な食糧不安を抱える人が3億人を超えています。さらにロシアは核兵器を使用することをちらつかせています。(恐怖)そのロシアに対抗して優れた戦車、優れた戦闘機をウクライナに送って圧力をかけようとする諸国の在り方にも憤りを感じます。お互いに戦争がない世界を願いながら戦争をするのです。
掲示板の言葉は、『「浄土」とは「お前はいかなる世界を生きているのか」と問う言葉』です。浄土は、どこまでも「我と我が世界を問うもの」だと思います。現実生活の中で、この戦争の世界を生き、しかも自らのうちにも戦争を生み出す種をもつものであることをあきらかにします。地獄(戦争)、餓鬼(欠乏)、畜生(恐怖)の中で、いよいよ自分自身を見失い、閉鎖的になり、孤立していく私たちに、万人が共に生まれることのできる世界、「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」世界、浄土が問いかけていることを、今こそ聞かなければならないと思います。
令和5年 3月 深草誓弥