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娑婆はこんなもんだと思いくくるのは 堕落の第一歩である。(暁烏敏)

娑婆はこんなもんだと思いくくるのは
 堕落の第一歩である。    暁烏敏

 四月の掲示板の言葉には、真宗大谷派の僧侶、暁烏敏(あけがらす はや)先生の言葉が選ばれています。二十代から清沢満之に師事され浩々洞を開設されます。晩年、真宗大谷派の宗務総長に就任し、窮地に追い詰められていた宗派の財政を回復させるお仕事をなされた方です。

 掲示板の言葉の冒頭に出てくる「娑婆(しゃば)」という言葉は、仏教語です。テレビドラマや映画で、刑務所から出てきた人が「シャバの空気はうまいな」とつぶやくシーンを見たことがある方も多いと思いますが、ここで使われているシャバが娑婆です。シャバは不自由で閉鎖的な場所から解放されて、束縛のない自由な身になったような意味で使われています。本来の仏教語としての「娑婆」はそのような意味ではありません。娑婆は、「サハー」という原語の発音を漢字の音を借りて置き換えた音写語です。「サハー」には、その意味を表す「忍土(にんど)」という意訳語もあります。忍土とは、「苦しみを耐え忍ぶ場所」という意味です。ですから、娑婆は私たちの生活する場所を「苦しみに満ちた耐え忍ぶべき世界」と教えている言葉です。

 掲示板の言葉に戻りますと、「娑婆はこんなもんだと思いくくるのは堕落の第一歩である」とあります。私自身、この世に生を受けて三十九年経過しています。気づけば、これまで経験してきたことから、いろんなことを瞬時に判断し、損することが無いように、失敗しないように行動しています。「こういう時は黙っていた方がいい」とか、「こうすればうまく事がはこぶだろう」とかという、はからい事に明け暮れています。世界を向こうに回して、「こんなもんだ」と結果を当てにして、そろばんをはじいて生きています。面倒なことや、困ったことがおこらないようにしているつもりです。どちらかといえば、「堕落」しないように生きているつもりです。

 しかし、困ったことは無くなりませんし、面倒なことも次々と起こってきます。何故でしょうか。しまいには「この世界がわるい」とか、「娑婆だから仕方ない」というように世界のせいにしているのではないでしょうか。掲示板にある「思いくくる」というのは、そういうことだと思います。自分勝手に出した結論としての娑婆です。これは教えの言葉でも何でもないでしょう。掲示板には「堕落の第一歩」とあります。刻々と移り変わる世界を「こんなもんだ」と観念的に固定化するところから「堕落」、まともな道が歩めなくなってしまう第一歩がはじまるということではないでしょうか。

 大切にしたいことは、この世界は自分の思うように変えることはできない、ということです。本来、「娑婆」という言葉は、その道理を私たちに教え示す言葉としてあるものではないでしょうか。この世界を自分の都合のいいように変えていくことはできません。それは妄念妄想です。逆なのでしょう。世界を自分の思うように変えていくのではなく、思い通りにならない世界を通して、自分がいかに我がままであるかを教えられるのではないでしょうか。

 私たちの目は外に向いています。あっち向いたり、こっち向いたりと外ばかり見ています。「世の中はこうだ」とか「他人はどうだ」とか外ばかり気にしています。たちの悪い評論家のようなものです。自分のことは問題にしようともしません。その私に「思い通りにならない」娑婆という世界は、「問題は内にあり」と呼びかけているのではないでしょうか。 令和4年 4月 深草誓弥

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