平成23年12月
本当の自分が分からんから 本当でないものを 本当だと思っていた 安田理深
わたしたちが普段、これが私だと思っているわたしは本当のわたしなのか。という疑問を与えてくれる言葉です。
日頃、自分の考えや行動を振り返るということはあるでしょうか。案外、自分といいながら何も見えていないのが現実です。他人を見て、私はあの人より出来がいい、しっかりしている、あんな姿にはなっていない、と言って安心して過ごしているように思います。しかし、少し自分のミスが目立ち、注意でも受けようものなら、顔色を変え、それを否定し認めようともせず、自分を守ろうとして、必死になって言い訳をしている。そんな姿が、日頃の生活を振り返ると見えてきます。
しかし、そんな生き方が本当にわたしたちの歩む道なのでしょうか、また、本当の自分なのでしょうか。“人間死ぬまで勉強”という言葉を最近よく思い浮かべています。この意味は、必死に物事を頭に詰め込んで、理解を深めていくことを死ぬまで続ける、と捉えてしまいますが、よく考えてみると、それは無理な話なのです。なぜかというと、わたしたちの身は老病死していく身を受けているからです。病気をして薬や手術によって治ったとしても必ず命終えなければならない、そして、どれだけ努力しても老いには勝てないということです。どれだけ頑張ってもその努力は、老病死の前では無力なのです。その事実に、目を向けず、なんでも思い通りになると思っているままで、勉強といっても身につかないのです。そこに、仏教でも大事にしていることですが、“聞く”という姿勢があるのです。つまり、死ぬまで勉強ということは、命終わるまで聞く耳を持ち、常に自分の生きる姿を確認していく学びをいうのです。
今月の言葉に帰ると、分からないものを分かったような顔をしている姿勢が、一番危険で曖昧である。常に聞く耳をもって、自分の歩みを確認していくことが、わたしたちの生きる本当の意味、それが本当の歩みであるということを教えて下さっているのではないでしょうか。
(立白法友)