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人生 一生 酒 一升 あるかと思えば もう空か

人生 一生 酒 一升 あるかと思えば もう空か

 今年も早いもので、もう12月です。蓮如上人は「人間はただ、電光朝露の夢幻のあいだのたのしみぞかし」と、人生の過ぎゆく早さ、はかなさを「御文(お手紙)」の中で記されています。時間の過ぎゆく感覚は面白いもので、1年という年月も過ぎ去った1年間はあっというに感じますが、1年先の事となると長く感じます。「少年老い易く学成り難し」という中国の古語も有る様に、古来から時の移り変わりの早さを説くことわざは数多く存在します。誰しもが過ぎ去った時を惜しみ、近づく人生の終わりの寂しさを言葉にせずにはいられません。今月の言葉は、老境となった作者が空となった一升瓶を片手に、人生を嘆く姿が目に映ります。

 呑んべえの人は分かっていただけると思いますが、栓を開けていない一升瓶が手元にあるだけでなんとも言えない安心感があります。その時はお酒が減ることは気にしていませんし、沢山呑めると思っています。そういう思いで一杯二杯と呑み進めていきますが、当然お酒は少しづつ減り始めます。「ある」と思っていたお酒もとうとう飲み干してしまい、「空」になってしまいます。一生も同じで、酒に酔う様に色々あった人生も、あっという間に終わりが近づいていくのです。

 相田みつをさんは、人生がその様に終わってしまう事への空しさを「そのうち」という詩に表現されています。

 「そのうち」
そのうち、お金がたまったら
そのうち、家でも建てたら
そのうち、子どもから手が離れたら
そのうち、仕事が落ちついたら
そのうち、時間のゆとりが出来たら
そのうち、そのうち、そのうち、......
できない理由を繰り返しているうちに、結局、何もやらなかった
むなしい人生の幕がおりて、頭の上に寂しい墓標が立つ
そのうち、そのうち、日は暮れる
今来たこの道、帰れない  (相田みつを)

 自分にはまだまだ後先時間があると思って生活をしています。「そのうち、そのうち」と、しなければいけない事を先送りしながらしながら生活しているのです。会社のため、家族のためと思い一生懸命働いてきたけども、一体何のための人生だったのか。何のために生まれてきたのか。ふと立ち止まり、私の人生これでよかったのだろうかと振り返る時が来た時、何とも言えない空しさを感じる事があるのです。しかしその「空しい」と気付いたことが大事なのではないでしょうか。空しいと感じるということは、人生の本当の満足を得、生まれたことの意味を知りたいという、私の深いところから発しているシグナルだと思うのです。

 宗祖である親鸞聖人は、比叡山での修行中にこの空しさと真正面から向き合われたのだと思います。29才の時に山を降り、京都の吉水で出遇われた法然上人より、「ただ念仏して阿弥陀様にたすけられなさい」との教えをいただかれました。その念仏の教えは、「あなたをすくいたい」という阿弥陀様の呼び声をいただいてお念仏申すという事です。空しさを私に感じさせるものは何でしょうか。空しさは真実からのはたらき、阿弥陀様からの呼びかけではないでしょうか。本願念仏のみ教えは、いのちの底からわき上がってくる根本的な要求に応える教えです。空しさを感ずるということは、阿弥陀様と共に歩んでいるのだと教えられたのではないでしょうか。

 一升瓶はスーパーに行けば売っていますが、私達人生の「一生」はどこにも売っていません。一生とは「一回限りの生」という意味ですから、取り返しの付かない、やり直しの出来ない生です。この「一生」をどう味わうのか、「一升」から呼びかけられていると感じれば、この一日の一杯も深い味わいとなります。 令和4年12月 貢清春

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