ロゴ:福浄寺

トップイメージ1 トップイメージ2 トップイメージ3

悲の無いところに 阿弥陀は立たぬ

悲の無いところに 阿弥陀は立たぬ

 「火の無いところに、煙は立たぬ」の言葉が思い浮かぶと思います。根拠が無ければ、うわさは立たない。うわさが立つからには、なんらかの根拠があるはずだという意味です。今月の言葉は、阿弥陀様がお立ちになっておられるという根拠には「悲しみ」があるということです。

 真宗の寺院にお参りしますと、本堂には阿弥陀様の立像が安置されています。鎌倉の大仏様も阿弥陀様ですが、座った姿の阿弥陀様です。座像としての阿弥陀様は、一般的に瞑想中のお姿、説法をしているお姿だと考えられています。立っておられる阿弥陀様は、苦悩する衆生を救おうとして私たちの前に立ち現れて下さった慈悲の姿を表現してあります。また阿弥陀様のお像を横から見ますと、若干前かがみの姿勢です。しかも片足が半歩前に出て、さあ今から人々を救いに行こうと足を踏み出しておられます。座っては居れず、立ちっぱなしでも居れず、私たちの所へすぐにでも行って救いたい、摂取不捨の大悲本願のおはたらきを、阿弥陀様のお像を通して表現されてあるのです。

 仏心を表す言葉に「慈悲」という言葉がありますが、「慈悲」には「抜苦与楽」ともいわれ、楽を与え苦しみを取り除こうという仏のこころを表現します。日常生活でも感じることがありますが、苦しい事があっても一緒に分かち合ってくれる人がいたり、悲しみを共感してくれる存在があると安心できるということがあります。つらい出来事に会っても一緒にいて下さる人が側におられれば、頼もしいと感じます。逆に、側にいてくれる人がいない、分かち合う人がいない時のさみしさは、時間がとても長く感じられます。地獄といわれる世界はそういう場所です。地獄に堕ちたものは、終わることのない責め苦を味わうだけで、同伴する人は一人も居ないと説かれます。孤独の中に沈んで、たった一人で泣かなくてはならないのです。私たちの人生で、本当に楽が与えられる、苦が除かれるということは、どういう事をいうのでしょうか。

   「さびしいとき」 (金子みすゞ)
  わたしがさびしいとき  よその人は知らないの。
  わたしがさびしいとき  お友だちはわらうの。
  わたしがさびしいとき  母さんはやさしいの。
  わたしがさびしいとき  ほとけさまはさびしいの。

 金子みすゞさんが詩の中で表現される様に、わたしがさびしい時には他人は知るよしもありません。友だちは笑って励ましてくれます。そしてお母さんはやさしさをもって抱きしめてくれるのでしょう。しかし金子みすゞさんは、本当に私のさびしさを知り、一緒に悲しさを共有する存在は仏様であると感じておられます。悲しみに寄り添って下さる仏様がいらっしゃって、どんな時にも「南無阿弥陀仏」というお念仏となってはたらいて下さる。そういう阿弥陀様のおこころをいただけばこそ、「私は決して一人ではない。不意に悲しみはやって来るけど、一緒に背負ってくださる阿弥陀様がいらっしゃる。」と、その大いなる慈悲のはたらきを感じたときに、私達の中に本当の安らぎと楽が与えられるのではないでしょうか。 令和6年8月 貢清春

関連リンク