小さな恩には 気づいても 大きな恩には 気づかない
まずは「恩」という言葉がどういう意味なのかをひもといてみましょう。恩とは元々インドの言葉で「カタンニュー(為されたる事を知る)」という意味の言葉で、中国の漢字である「恩」という文字に翻訳をされました。恩を知る、恩を感じるということは、私を私にしてくださった原因が何であったかを、心に深く考え、思い、知ることであります。恩という字も「因」と「心」から成り立っています。「因を知る心」、字そのものが「カタンニュー」の意味を表現しています。
また、毎年真宗の寺院で勤められる報恩講は、親鸞聖人からいただいたご恩とは何だったのか、その事を確かめその恩に報いる、一年で最も大切な仏事です。報恩の報の字は「むくいる」という意味とは別に、「報告」や「報道」とも言うように、「しらせる」という意味もあります。様々なご恩をいただきながらも気がつかない私に報恩講という仏事をご縁として、ご恩を報せていただこうという意味にもとれます。
私たちは日々、大小様々なご恩をいただいています。親の恩や師の恩、自然の恩や国土の恩、日常の中で気が付く恩はどれくらいあるでしょうか。例えば、自分にしてもらったことが目に見える形になっていたりすると気が付きやすいです。お中元やお歳暮、お土産などがそうです。お品をいただくと、あの人からこれをいただいた、これをしてもらったという様に、出来る範囲でお礼も恩返しも出来ます。しかし目に見えない恩の方が、手で触れることの出来ない恩の方が大きいのだと、今月の言葉は呼びかけています。しかもそうしたものが私たちの人生を底から支えているらしいのです。
親鸞聖人はその大きなご恩を感じ、報謝する生き方があると示して下さいました。ご和讃に、「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」と詠っておられます。「阿弥陀如来のご恩は我が身を粉にしても、感謝しきれないものがある。だから人生をかけて報いなければならない、それほどの大きな恩をいただいたのだ。」という意味があります。この和讃の「報ずべし」の「べし」を注目して現代語訳してみると、「報謝しなさい」という命令の意味として受け取れます。「こうしなさい、ああしなさい、このようにせよ」という他者に対して命令するイメージがあります。しかしこの「べし」には色々な意味があると指摘されます。
ひとつは、推量や当然の意です。「報謝するだろう、報謝するはずだ」という意味になります。もう一つは義務の意。「報謝しなければならない」という意味です。この義務の意は決して他人に対して命令するのではなく、自分に対して「しなければならない」と駆り立てられるような感情です。それは自分自身に大きな恩を受けていると目覚めたときに湧き出てくる、義務感なのではないでしょうか。
報恩講という名称の仏事を勤めますが、返恩講ではありません。恩をお返しすることではありません。もし恩をお返しすることが出来るのなら、返した時に「これで済んだ」という達成された意識が出てきます。もうそこで恩を感じることは無く、終わったことになってしまいます。恩は返すことではなく、気付き、感じ、賜るものです。その事を思うと報恩講と名付けてお勤めしてきた念仏者の歴史に尊さを感じます。私たちに先だって念仏して下さった方々の願いを感じつつ、今年も念仏の教えに出遇わせていただきたいと思います。 (貢 清春)平成30年1月