この世に 自分より 劣っている者が 一人でもいると 思っているような人には 仏法は響いてこない (伊藤元)
1月の御正忌報恩講に講師として御出講して下さいました伊藤元先生は、昨年2024年10月にお浄土へと還られました。昨年まで御出講いただきました先生は、ご高齢ではございましたが活気あふれるご法話で、丁寧にお念仏のみ教えをお話し下さいました。先生は常に参詣人の反応を見ながらご法話をして下さり、理解の難しい仏教の言葉でも、生活の具体的な出来事を通して、分かりやすく教えて下さいました。今月の言葉は、伊藤先生が御正忌のご法話の中で、お話し下さった言葉です。しかしなぜ「自分より劣っている人が一人でもいる」と、仏法が響かないのでしょうか。
お寺にお参りし、仏法を聴聞することはとても大切なことです。しかし仏法を聞き続けていると、「ああ、自分は少し分かってきたぞ」とか、「あの人はまだ知らないな」といった思いがふっと湧いてくることがあります。他人よりも知識が豊富になったことで、自分が偉くなったと勘違いするのです。すると知識の無い人、自分より劣っている人を下に見てしまいます。それは人間の自然な心の動きなのかもしれませんが、それは「慢(まん)」という煩悩の一つです。「慢」とは、「慢心」または「おごりたかぶる心」を指します。これは、自分を過大に評価したり、他人を軽んじたりする煩悩を意味します。
蓮如上人は、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり」と仰せられますが、私たちが教えを聞くことで、いつの間にか物知り顔をして、「心得たと思っている賢者」になってしまう危うさを指摘されるのだと思います。私たちは知識を求め、他人よりも多くの知識を持っていることが素晴らしいことのように思い込んでしまっているのではないでしょうか。仏法を聞いて「なるほど」と思えることはあるけれども、その「分かったつもり」や「人より知っている」という慢心は、実は仏法の道をふさぐものにもなります。伊藤先生は、教えを聞いている私の姿勢を、あえて厳しく指摘されたのだと思います
仏様の智慧とは、仏様の方から私達を照らし、真実に目覚ましめようと私の心にはたらきかけて下さいます。仏法を聴聞するということは、沢山仏教語を学んで知識をつけて、物知りになることが目的ではありません。教えに遇えば遇うほど私の姿を教えられ、知っていることであっても何度も何度もくりかえし聞いて、我が身の事として教えをいただくことが大切なことです。真実なる仏法に照らされたら、「自分は何も分かってなかった」と気づかされる。その繰り返しこそが、仏法を聞くということなのでしょう。何も分かっていない自分が知らされると、自分より劣っている人は一人もいなくなります。逆に私の身の回りの人は、お念仏を勧めて下さる大切な人として見えてくるのでしょう。伊藤先生はご法話の中で、吉川英治氏の「我以外皆我師(われ以外、皆わが師なり)」という言葉もご紹介下さいました。私以外の方々は、この私をお念仏の世界に導いてくださった師、先生として拝んでいく世界があると教えられます。私の身の回りの一切に対して、手を合わせながら生きていけるということです。
自分より劣っている人が見えてしまう自分、物知り顔をしてしまう自分は、ダメなやつだから仏法から外される、ということではありません。むしろ、そういう私こそが、阿弥陀仏の救いの対象であることも仏法から教えられます。浄土真宗の他力の教えは、「こんな私ではダメだ」と自分を裁くためのものではなく、「このような私でしかない」と気づくとき、「そんなあなたをこそ、捨てはしない」と呼びかけてくるのです。 令和7年4月 貢清春