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浄土に往生するということは ここで生きられるようになったということです (竹中智秀)

浄土に往生するということは
 ここで生きられるようになったということです (竹中智秀)

 今月の掲示板の言葉は、大谷専修学院の院長をされていた竹中先生の言葉です。9月になり、秋のお彼岸を迎えるにあたり、かねてから折に触れて思い起こしてきた言葉を寺の掲示板の言葉として選びました。
 往生という言葉を聞いてどのような事を思われるでしょうか。多く聞く言葉としては、高齢の方が命終された際に、「大往生」といわれる事のように思います。往生イコール死というイメージが定着している事のあらわれかもしれません。ほかにも進退きわまり、どうにも困った様を「往生する」とか、土壇場でのあきらめの悪さを「往生際(ぎわ)が悪い」などいいます。

 先達は、「往生とは、我が浄土に生まれよという阿弥陀如来の呼びかけに気づいて、目覚めの世界である阿弥陀如来の浄土(彼岸)に向かって往き生まれよう(往生)との方向をいただいた人の生き様である」と教え示してくださっています。ですから本来、往生とは人々に生きる勇気、希望を与える言葉であったと思うのです。

 「浄土に往生するということは ここで生きられるようになったということです」この言葉から教えられることは、「では逆に、ここで生きさせなくさせているものは何か」ということです。「いま、ここの、この私」を生きさせないものこそ、都合のいいことが好きで、都合の悪いことが嫌いという私の根性でしょう。私の物差しです。この物差しを中心に据えて生きる限り、他者も世界も自分自身も「えらび、きらい、みすて」て、「ここではない、これは私ではない」と言い続けるしかありません。

 竹中先生は「いつでもない今、どこでもないここ、誰でもない私自身を自分と出来ない。そのことを空過という」とも教えてくださいました。「自分探し」という言葉があります。今の自分とは違う本当の自分がどこかにいるのではないかと錯覚し模索するのですが、実は本当の自分はどこか別にいるのではありません。事実の自分自身を引き受けられない自分がいるだけなのです。いつでもない「今」、どこでもない「ここ」、誰でもない「私自身」と我が身の事実を受け止めて、いのちいっぱいに生きる、これこそ、いのちそのものの願いなのではないでしょうか。

 阿弥陀如来は、私たちの問題をよく知られ、新しく自他を見つめることのできる世界として浄土を建立されたのでしょう。浄土という世界にいのちの本来性を知らされ、自分の物差しの誤りや、歪みを絶対化しない生き方をいただくこと。そのことを「浄土に往生するということは ここで生きられるようになったということです」と竹中先生は教えて下さっていたのだと思います。

 私たちにとっての一大事の問題とは、実は「いつでも私は私自身でありうるか、どうか」ということに尽きます。聖道、浄土の決判もこの問題にかかわるのです。末法五濁の世というのも、まさに現代のように、何もかもが大状況の中に飲み込まれてしまって、しかも、ただもう一気呵成(いっきかせい)に破滅していってしまうような時代のことで、ひとりひとりが無にされてしまう時代のことです。しかし、そのような時代に於いても、なおかつ私たちをして私たち自身を喪わせないで、いつでも私たち自身でありうることを獲させる、その教えこそが、浄土の教えだというのです。それは、もはや状況と私とを別々にするのではなく、状況をもそっくりそのまま、逆に飲み込んで私自身とすることのできるような、そんな新しい主体を生み出す法こそが、浄土の教えであるからです。ただ念仏のみが、状況の中に呑み込まれて、どのような私になっていこうとも、それをそのまま自己自身とすることができるのです。               竹中智秀『出会い』1974年度

 竹中先生は、浄土の教えのみが、どのような状況にあっても、真の意欲を生み出すのだということを教えて下さいました。その教えにふれたものとしての私の「生き様」はどうなっているでしょうか。お恥ずかしいばかりです。南無阿弥陀仏、念仏を申そうと思います。  令和5年 9月 深草誓弥

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