因を外に求める限り 苦悩は無くならない
人間とは 自ら苦悩を 生み出す生き物 (平成28年10月)
「人間とは何か」を定義する言葉として、1735年にスウェーデンの植物学者リンネは「ホモ・サピエンス」という学名を与えました。「ホモ」は「人」という意味、「サピエンス」は「知恵のある」という意味です。ですから「人間とは何か」という問いに対して、「知恵あるがゆえに人間である」という回答が挙げられたことになります。
「知恵の人」、確かに人間は自分を知り、他者を知り、事柄を知り、そしてそれらに関わることを知識として蓄え、そしてより良い方向へ改善をはかる知恵を持つのですが、この人間観は一面的であるように思います。人間はその知恵をもって、何ものにも縛られないような状態を求めてきました。科学、医学などの発展はそれを象徴しています。しかし、本当に何ものにも縛られないという自由は実現できませんでした。逆に知恵によって我々が生きていけなくなるようなことも起こっています。人間の「英知」を結集し、「クリーンエネルギー」をうたった原発は、先の震災によって福島に住む人たちの故郷を奪いました。
掲示板の言葉にあるように、人間は自分の外に自分を束縛したり、悩ませたりする「原因」があり、それを取り除いて自由になろうとします。外に自分を妨げる不都合なものがあり、それを都合のいいように、妨げのないようにととのえていこうということで、たしかに科学技術は発展して、不都合は少なくなってきたかに見えますが、無くならないのです。なぜでしょうか。
「人間とは何か」を定義する語として、もう一つの言葉があります。それは「ホモ・パティエンス」「苦悩の存在としての人間」という言葉です。ユダヤ人精神医学者ヴィクトル・フランクルが提唱した用語ですが、この言葉が掲示板の「人間とは自ら苦悩を生み出す生き物」と重なります。「人間の本質は苦悩である」とするこの言葉は、生きている限り、ものを思うということがある限り、苦しみ、悩み以外にありようを持たないという目線で人間を見つめています。
人間は外に自分を縛るいろいろのものがあるとし、それを取り除こうとしてきましたが、なおいっそう「こうでなければならない」という自分のこころに縛られているのではないでしょうか。苦しみ、悩ませる外のものをなくせば、苦悩は無くなると思い込んでいますが、そんなことはありません。憎く、恨めしい人が自分の前からいなくならないことはつらいですが、根っこにある問題は、憎み、恨む自分のこころの始末がつかないことです。
苦悩はどこからおこってくるか。仏教はその原因を私たちの内にある執着(「こうでなければならない」という思い)と見定めました。苦悩の現実を見つめ、解脱した仏陀釈尊は、苦悩をとおして、より深い願いに目覚める道を明らかにされたのです。苦悩させる外なるものの問題ではなく、苦悩の存在として生きるしかない自分を受け止めていく願いが見いだせないことが問題だったのです。「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(聖典五〇三頁)と、如来の大悲本願のこころをあきらかにされた親鸞聖人も、人間を「苦悩の有情」と見つめられています。 (深草誓弥)