宗教にとって大切なことは
自分の弱さを知ることである (西谷啓治)
今月も先月の掲示板に引き続き、宗教哲学者の西谷啓治師の言葉が選ばれています。「宗教にとって大切なことは自分の弱さを知ることである」、この言葉は私にどういうことを教え伝えようとしているのでしょうか。
自分の弱さということですが、私は日常生活の中で自分の弱点や出来ないことを隠し、弱点を突かれまいとむしろ強がって生きています。強がって生きていることを教えるのは、「大丈夫」という言葉を私はよく使いますが、この大丈夫、実は仏教語です。学識人徳の備わった人中の最勝者を、漢語で「丈夫」とほめたたえる言葉だったようです。そこに、インドより仏教が伝来したときに、さらに優れたものをあらわす大を付けた「大丈夫」は仏の異名となった、そのような背景のある言葉です。ですから事実としては、仏とは程遠い、全く大丈夫ではないにもかかわらず、大丈夫と言って生活しているわけですから、思い上がりもいいところです。
もう二十年以上前ですが、当時流行した浜崎あゆみさんの曲にこういう一節がありました。
居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待できるのか分からずに
いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりもしていたよ
そんな言葉ひとつも望んでなかった
だから解らないフリをしていた
流行歌はその時代の人々のこころを映し出すものだと思いますが、現在も世界は「強いもの」「できるもの」が褒められ、評価される世界です。その世界を生きる私も「強くなければならない」という物差しを握りしめて生きています。浜崎さんも「強くなければならない」という観念の中で育ち、その観念の刃に傷ついた幼心が、「そんな言葉ひとつも望んでいなかった」と感じていたのではないでしょうか。この歌詞に多くの人が共感したのは、「強くなければならない」と裁く世界への悲しみであったでしょうし、本当の居場所はそんなところにあるのではないという叫びの代弁のように感じたからではないでしょうか。
「強くなければならない」と周りからも排除され、自分からも見捨てられていく。なかなか事実の自分を自分とすることができずに、「こうでなければならない」という観念の中で生きている私たちを阿弥陀如来は深く悲しまれ、観念、思いの中を生きるのではなく事実の自分を生きていきなさいと願われているのでしょう。大谷専修学院の学院長をされていた竹中智秀先生は、阿弥陀如来のこころを「えらばず、きらわず、みすてず」と繰り返し教えて下さいました。割り切れなさや、不安や、悩みをもつのが事実の自分、裸の自分です。裸になれないと人間は虚飾を求めます。思えば「強くならなければならない」と常に外に自分の根拠を求め続けなければならないことほど、弱いことはないのかもしれません。掲示板の言葉にふれて、あらためて思うのは、私たちは自分で自分を支えているのではありません。この身を支えている大地に依って立っているのです。この身を支えているものに思いを致す時、宗教の言葉が響いてくるのではないでしょうか。 令和3年 4月 深草誓弥