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わが身のいとなみに行きづまりはない ただ 行きづまるのは自我のおもいだけである (広瀬 杲)

平成24年3月

わが身のいとなみに行きづまりはない ただ 行きづまるのは自我のおもいだけである  (広瀬 杲)

 この言葉を思う中で、私は一つ思い浮かぶものがあります。それは、お釈迦様がさとりをお開きになるまでの姿です。

 それは、幼少のある日、農耕祭の見学におもむかれ、そこで生き物の食物連鎖を目の当たりにされ、「なぜ、生き物は互いにはみあうのだろう」と、心を痛められ、悩まれます。さらに、青年になられた頃、四門出遊といわれる見老病死により、一層心を痛められ、ついに、出家を決断して、修行者となられ、その悩みを解決する方法を、瞑想や厳しい修行によって、見つけようとされます。しかし、いくら想いをおこしても、身体を極限まで痛めつけても、心は晴れず、ついに、その修行をやめられ、ぼろぼろになった身体を尼連禅河で綺麗に洗い、村娘のスジャータの施すミルク粥を食べ、体力を回復し、さとりへの準備に入られ、瞑想の後、ついに明けの明星が輝くころに、さとりをお開きになられるのです。

 その内容が、「これ有るときかれ有り、これ生ずるよりかれ生ず。 これ無きときかれ無く、これ滅するよりかれ滅する。」です。すべての存在は、互いに関係しあって成り立っているということに、目覚められたのです。
この姿を憶うとき、私たちと変わらない、絶望や悩みを抱え、そしてそこから立ち上がっていく姿があるように思います。私たちは、どん底まで落ちたと思うと、深く絶望し、色々な考えを巡らし、悩み続け、そこからどう立ち上がればいいのか、そのことも分らずに、時を過ごしているように思います。そんな姿が、生活を送る中であるのではないでしょうか。

 今月の言葉は、そんな姿に優しく、また厳しく言葉を掛けてくれています。自分自身の営み、この身の事実に行きづまりはなく、行きづまっているのは、自分の思っていることをどこまでも正当化し、それを疑うことなく、かばい続け、貫こうとする自己中心の心にあると教えてくれます。お釈迦様のさとりは、いま現にあることを、ありのままに見すえて、それらのすべてが互いに関係して、支え合っていたということに、頷いたというものです。幼少の頃や青年の頃の受けた衝撃は、事実をありのままに見ることができなかったために起こした迷いの姿だったのです。

 今の生活に引き当てれば、行きづまったと思っているのは、実は私たちの自分の思いどおりにならない心がそうさせているということです。“ああすればよかった”、“こうすればよかった”と、悩んでばかりでは、何も見えてこず、愚痴をいって八つ当たりをしたり、原因を周りに求めたりといつまでたっても解決はしません。先ず、行きづまったと思う自分の心に目を向けて、向き合う事が必要だと思います。日頃、問題は外にある事を疑いもしない自分の心に目を向けて、本当に問題がないか確かめることが大切である事を、今月の言葉は教えてくれているのではないでしょうか。

(立白法友)

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