何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなの嫌だ
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終る そんなの嫌だ やなせたかし
この詩を作られたのは「アンパンマン」の原作者、やなせたかしさんです。やなせさんは「手のひらを太陽に」の作詞をされた方としても知られています。先日、10月13日にやなせさんは94歳で亡くなられました。アンパンマンは1973年の絵本雑誌掲載から40年、1988年のテレビアニメ放映開始から25年が経った今も、子供たちを中心に大人気で、誰もが知っているといっても過言ではありません。
私も小さいときからこの「アンパンマンのマーチ」に親しんできました。あらためて立ち止まってみると、やなせさんはいのちの根源の問いをアンパンマンを通して私たちに呼びかけておられたのでした。「何の為に生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなの嫌だ」という言葉は、「あなたの本当に欲しているものは何か?いのちがけでほしいものがあきらかになっているのか?」という問いかけです。
私たちは日ごろ様々なものを欲して、頼りにして生きています。車、お金、家、地位、名誉。しかしこれらは生きるための手段としての宝には違いありませんが、「いのちがけでほしいもの」といわれると言葉に詰まってしまいます。日ごろ欲しているものは生活の境遇、暮らしを豊かにしようと求めているものです。しかし、はたしてその日ごろ欲している、そのもののために私は生まれ、生きて、いのち終えていくのだと胸をはって言えるでしょうか。
臨床医師として多くの方々の死を見取られたキューブラー・ロスさんは「私はいい生活をしてきたけれど、本当に生きたことがありません」という、死を前にしたひとりのアメリカ人の言葉を紹介されています。この言葉を残された方は、自らは死ぬるいのちを生きているものだと、死と直面し、人生全体の意義が問われる中でこの言葉を残されたのだと思います。この言葉は、やなせさんの言葉「答えられないなんて そんなの嫌だ」と相通ずるものがあります。この二つの言葉の根底に流れているのはいのちのさけびです。
私たちのいのちは、煩悩というものをもって、いつでも自分自身を偉い者であるとか、幸せでなければならないと、理由も無く思って腹を立てたり、嫉妬したりして生活しています。しかしそういう自我意識と、「あるがままの自分を生きていきたい」という意欲があります。私たちは「本当」を求めずにおれないような、いのちのさけびを生まれたときから具えています。それが願というものです。
『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の物語は、自分の外に存在の根拠を求める国王だったものが、世自在王仏に出遇い、仏を信ずるこころがおこったという物語が説かれます。仏は自在人と訳されるように、どんな境遇にあっても与えられた境遇において、「自らここに在り」と満足しておる者です。ここでの仏との出遇いは「あるがままの自分自身を喜べていますか」ということでありましょう。「~のために生きる」というのではなく、私がこのいのちを受け止め生きることが本当の幸せであり、歓びであることを、「信心歓喜」という言葉が気付かせてくれます。
深草誓弥