煤はきて 心の煤は かへり見ず
越智越人
今月の掲示板の言葉を見て、思い起こしたのは年末の大掃除でした。いつのころから大掃除や煤払いが歳末の年中行事となったのかはわかりませんが、一年の汚れを落とし、新たな気持ちで新年を迎えるために、年末に行われるのでしょう。お世話になった場所や物に対する感謝ということもあるかと思います。
掃除をして綺麗になり、透明になった窓ガラスを見ていると、なにか晴れやかな気持ちになります。澄むことによって、さえぎりが無いかのように見通すことができます。内から、外から、物がはっきりと見えるようになります。
透明になる窓ガラスのように物事をはっきりと、あるがままに見る眼をもっているでしょうか。あるがままでは満足しないこころをもって見る眼しか持ち合わせていないようです。必ず自分の都合という色眼鏡を通して外を眺めています。綺麗に磨いたところが人から汚されようものなら、途端に自分のした仕事を台無しにしたと腹を立てますが、自分も含めた皆の場所ですから、自分も汚していますし、汚れるのです。だから掃除をするわけですが、掃除をして、綺麗な窓に酔いしれ、その窓を汚す人を排除するという、さかさまになった自分中心の心が起こってくるのです。掲示板の言葉のように、私には外の汚れしかみえないのです。
親鸞聖人は
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
と述べられています。試みに訳をしますと、
聖道の思想では「罪業というのは人間の執れにすぎない。罪業はもともと無いのであってこころの本来は清い。修行して汚い面を取り除いて清い姿にもどる」と教えている。しかし、その聖道の思想のもとにあるのは都合の善い、悪いと裁いている自分の思いを信頼しているこころがある。悪をやめて善を修めるというが、自分は善、正しいものだというところから罪悪を許さない、といっている、自力のこころを立場とした発想でしかない。
そのような自力のこころを立場として、そのように廃悪修善しようと努めて、綺麗なこころでいきている人がいるか、一人もいないではないか。
私たちはいろいろなことを問題にするが、その問題をあれこれと問題にする自分自身を問題にすることがなかなかできないのです。阿弥陀如来はその自分の思う潔癖な善悪の倫理がいのちを切り刻む刃であることを教え、「自分の思いでなく、事実をはっきり見なさい」
と語りかけます。
まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。 『歎異抄』
深草 誓弥