平成22年2月
佛を念ずるということは
我が身の煩悩 浅ましき生きざまが
見える、ということです (曽我量深)
人は思い通りにならない現実に苦しみながら生きていますが、目先の楽しみによってその苦悩はいつの間にか忘れ去られてしまいます。しかし、それは苦悩がなくなったということではなく、苦悩している自分を誤魔化しながら生きているということではないでしょうか。誤魔化したくなるほど、苦悩と向き合うということはつらいものだとも言えるでしょう。
親鸞聖人は、苦悩と真正面から向き合い続けた人です。あらゆる経典を読み、あらゆる修行を積んだ結果、無明の煩悩を滅することができない、どこまでも浅ましい「煩悩具足の凡夫」であると、身をもって痛感されます。人間の苦の原因である煩悩を滅することができないとなると、そこから救われていく道が閉ざされてしまうのですから、この受け止めはとても苦しいものであったに違いありません。
しかし、親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」である自分の生きる道を懸命に求め、法然上人との出遇いの中で「南無阿弥陀仏」という念仏の教えに目覚めていきます。
「南無阿弥陀仏」とは、迷える人間のありのままの姿を照らし出すとともに、それでもなお見捨てないという如来の智慧のはたらきであり、すべての人を救いたいという願いです。
誰かに願われている時や自分が何かを願う時、その願いとは正反対の現実を生きている自分自身がいます。そして、その現実の自分の姿に気付かなければ、本当の願いにも気付きません。自分の願いを受け止めてくれる世界があるという実感がなければ、そのための歩みは心細くあやういものとなります。
「もう駄目かもしれない」と思った瞬間、そこから一歩を踏み出す勇気が持てなくなり、その歩みはとまってしまいます。しかし、その願いを受け止めてくれる世界があると頷くことができたならば、それは、その世界への歩みの大きな力となるでしょう。
「我が身の煩悩 浅ましき生きざま」を直視することはなかなか出来ることではありません。できれば目を背けたくなるものだと思います。しかし、本当の願いは今の現実の姿が見えてこないことには気付けません。
本当の願いに目覚めなさいという如来のはたらきが、念仏となって今の苦悩する私たちに生きてはたらくことによって、気付かせてくれるのです。
(深草 証子)