「聴聞」
聴くといいながら 人はたいてい 聴きたいこと、理解できることしか聴かない
聞こえてくるということがない
今月の掲示板の言葉は聴聞という語について教えられている言葉です。聴と聞はどちらも「きく」と読めますが、意味はそれぞれ異なっています。聴は「まともに耳を向けてきく」、「ききしたがう」という意味があるようです。それに対して聞は、字の成り立ちが「耳+門」ですから、「よくわからないこと、へだたったことが、きこえる」という意味です。
これらの意味を踏まえて聴と聞の意味の違いを考えてみますと、聴は「自分が意思してきく」ということであり、聞は掲示板の言葉にあるように「自分の意思を超えてきこえる」ということでしょう。
聴聞は「仏法聴聞」という言葉で伝えられてきています。蓮如上人も「仏法はただ聴聞に極まれり。」と語られています。なぜ聴と聞があわせて用いられるのでしょうか。それは私たちが日ごろ立場としている「私」に問題があるからでしょう。
「聴くといいながら 人はたいてい 聴きたいこと、理解できることしか聴かない」と掲示板にあるように、私たちは「私」に都合のよいことしか聴きたくありませんし、「私」の頭がうなずけるようなことでないと嫌です。仏法をきくといっても、聴としてあらわされる「きく」だけなら、「私」の都合に合うか合わないかできくのですから、もはやそれは教えではなく、私の身を飾る知識教養や私の思いを満たす道具でしょう。
浄土真宗の正依の御経はすべて「我聞如是」「如是我聞」からはじまっています。「我聞きたまえき是(かく)の如し」「私が聞かせていただいたことは、このようなことです」という意味ですが、仏が説かれる法、まことの語が、きいた人に至り届き、そのまことにきいた人が深くうなずいている。そしてきいたことがずうっと残っている。なぜ残るかといえば、思いもかけず私自身が仏の言葉によって言い当てられた。むしろまことであると語られたことを「まことだ」と聞いた人が証明している。そのまことに触れた心が御経を生み出してきました。そこに聞という字がもちいられているのです。
ですから聞くということは、興味があるから、自分の都合にかなっているから聴くということでない大切な意味があります。思いもしなかった、わかっていなかった自分自身を言い当てられたところに聞くということがあるのだと思います。
蓮如上人が「仏法はただ聴聞に極まれり。」と聴聞という言葉で語られたのは、蓮如上人自身が仏法にご自身を言い当てられた、その仏の教えをこころにかけて聴きなさい、こころにかけて聴くなかで、私たちが日ごろ求めている「自分の都合のいい、思い通りになる」個人的な、断片的な世界でない、数限りのない無数の人が「そうだ」と深くうなずいてきた世界が「聞こえてくる」ということをおっしゃっておられるのでないでしょうか。 深草誓弥