ない ないと 数えはじめると 渇いてくる
ある あると 数えはじめると 満たされてくる
「自分はどっちの立場で生きているだろうか」と考えさせられました。置かれている状況は同じで何も変わりませんが、自分にある、何を、どう数えるのかで人生の受け止め方が180度変わることを教えられます。
この言葉で、はっと思い出した人がいました。それは鈴木章子(あやこ)さんです。この方は北海道斜里町、真宗大谷派西念寺の坊守さんで、49歳という若さで癌で亡くなられたお方です。その病床生活の中で沢山の詩を残しておられます。
「よく新聞などで有名人がガンで亡くなると、「ガンに負けた」といいますが、死が負けであるなら、生きとし生けるものすべて敗者であろうかと思います。私は肺一葉切りとることにより、元気な頃よりも自分の体を自覚し、「手もあった!足もあった!あれもこれもあった!あった!」と、思いもかけずありあまる程の沢山のものをいただくことができました。また、ガンという病気のおかげで、死をみつめなおし、過去46年間の生命をもう一度生きることができました。」 『癌告知のあとで』 探求社
身を痛めつけるガンによって肺の片方を無くしたにも関わらず、今自分にあるものに目覚めて生きられました。「あれもこれもあった!あった!」と、「ありあまる程の沢山のもの」を見つめていかれた鈴木章子さんの言葉からは、今現に生きている喜びと、いのちの躍動感が感じられます。また『変換』という詩には
「・・・今ゼロであって 当然の私が 今生きている ひき算から 足し算の変換・・・」
という言葉もあります。健康な時には気にもしなかった生きていることの喜びと、そして大いなる阿弥陀の働きをを実感し、その「おかげ」によって生かされてあることに気付かれたお方です。ガンに冒されながらも、その病をこの様に味わうことが出来るのかと驚くばかりです。
私自身の生活は、「あれがない、これがない」と、自分にないものを見つけては、「あれがほしい、これがほしい」と不足ばかりを言っています。他者に対しても同じ様に、あなたにはこれが足りない、あれが足りないと催促ばかりをしています。そういう姿を仏教では「貪欲」と教えられ、また「渇愛」とも言います。のどが渇いて水を求めるように、自分にないものをどこまでも求め、執着する心の状態です。この貪欲のこころは、求めていたものを手に入れたとしても飽きることがなく、また別のものが欲しくなります。手に入れた一時的な満足感は次のものを追い求める原動力になり、全てを手に入れたとしても心の底から満足することはありません。今月の言葉の様に「ない、ない」と数えている私の心は、いつまでたっても満たされず常に渇いています。
それでは、自分に満足する為にはどうすれば良いでしょうか。仏陀には「自在人・満足大悲の人」という別名があります。どの様な境遇にあっても自らがここに在りと、自分が自分であることが出来、この身に一切の不平不満がない人のことです。そして他の人に、この満足する世界を共に生きようと勧めてくださる人であり、今あるものに気付いて生きていきなさいと呼びかけておられる方が仏陀なのです。
私達は仏陀のように、心の底から満足する生活をしたいと願って生きています。しかしどうすれば満足できるかが分からず、とりあえず日頃の心を満足させようと走り回っています。でもそんなにあっちこっち外に向かって走り回らなくても、いただいている大事なものがあなたの中にあるんじゃないですかと、今月の言葉から問われているようです。
(貢 清春) H28 11月