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生死一如 片方ばかりみているから まちがう

生死一如 片方ばかりみているから まちがう

 

 生死一如という言葉は、私たちが「生きる」ということは、「死のある生」を生きているというあるがままの姿を教える言葉です。「一如」の一は二つに分けられない絶対を意味し、如は異なることのない真実そのものを意味します。

  私たちは「死の無い生」ではなくて「死のある生」だということは、身近な人の死にあって、見て、知っているはずです。しかし私たちは死を恐れ、死のことを忌み嫌い、見ないようにして「死の無い生」、自分は死なないもののようにして生きています。

  そのあり方がはっきりと現れてきているのが、現代における葬儀の形骸化という問題です。亡くなった人との関係を、「お別れの会」をすることで断ち切っていこうとします。「悲しんでいてはいけない、早く忘れて元気にならないといけない」という発想は、亡くなった人は「無くなった人」であり、生きているということにしか価値を見い出せないということを表します。生と死を分離して、自分にとって都合のいい「生」をもとめ、自分にとって都合の悪い「死」を遠ざけようとします。掲示板の言葉の「片方ばかりみているから」という片方は自分にとって都合のいい「生」です。その「片方ばかりみているからまちがう」私たちのあり方を蓮如上人は

 『ただ今生にのみふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましといふもおろかなり。』

                            蓮如聖人「御文」二帖目一通

 「今生にのみふけりて」、今の生を延ばすことしか考えないで、自分の都合にあう物事だけを追い求め、「いたずらにあかしくらす」、空しく日々を送っていると歎いておられます。中陰、逮夜のお勤めの際に「白骨の御文」を拝読していますが、その最後に

 『たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』

                            蓮如聖人「御文」五帖目十五通

 とあります。亡くなった人、白骨を前に、どんな人もただ今の問題として、阿弥陀仏の尊前で、亡くなった人と自らも同じ「死のある生」を生きる者として、「この死のある生をどう生きることが真実にかなうことか」と問うべきであると蓮如上人は語られます。先に命を終えていった人も、今を生きる私たちも、このいのち自身が持っている課題、「後生の一大事」は、死が終わりとなるような生を超えることです。自分の都合の善し悪しを拠りどころとしない。そのことに目覚ましめる呼びかけが、「生死一如」です。

                           深草 誓弥

 

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