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彼岸 亡き人の呼びかけ 亡き人から与えられた課題 それを縁として教えを聞き開き この"此岸"を生きていく

 

彼岸 亡き人の呼びかけ 亡き人から与えられた課題 それを縁として教えを聞き開き この”此岸”を生きていく
 
私にとって、彼岸会はこの九州に来てから触れた法縁でした。故郷の自坊は、彼岸の法要はしていません。9月は丁度、稲刈りの最盛期ということもあってのことでしょう。そういう意味では、亡き人に出会ってなかった、敬うことがあまりなかったということが言えると思います。この九州の地で感じたのは、亡き人を偲ぶ機会がたくさんあるということでした。そんな中で、忘れていた故郷のある念仏者の方の存在を思い出したのです。
 
それは、「おださん」という方でした。この方は、自坊のご門徒さんではありませんが、法要がある度に、自転車に乗って峠をふたつ越えて、わざわざお参りされていました。わたしが幼いころのことだったので、顔や体格、声や表情は覚えていませんが、ただ「おださん」という名前のおじいさんということしか分かりません。しかし、最近その「おださん」という方の存在というか、言葉には表せませんが、心の隅にいつもおられるように感じるのです。きついとき、苦しいとき、めげそうになったときに、ふと”おださんはこんなときどうしただろうか…”と考える時があります。そんな時、この場にいよう、もう少し踏ん張ろうという気持ちになるのです。
 
 改めて、今月の言葉を仰ぐと、確かに亡き人によって教えに出逢い、教えを聞く機会を与えられているということを感じます。また、生き方そのものを問うて下さる存在でもあると思います。
9月は、彼岸会です。古くから、”お彼岸さま”と尊称し、親しまれてきた仏縁です。秋分の日にあわせ、『仏説観無量寿経』や『観経疏』の教えに由来し、真西に沈む夕日に浄土を観じてきた歴史があります。そして、又、その彼岸(浄土)に先立っていかれた亡き人を偲ぶということも大切なことだと思います。
親鸞聖人は、「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせ候べし」という言葉を遺して下さっています。待っていて下さっている存在がおられるということです。それはそのまま、私たちが待たれている存在でもあるということです。亡き人によって浄土への道を示されているのです。その道を私たちは、教えを道しるべとして、この此岸を歩むのです。
 
 今回、ある念仏者の方を、尋ねさせていただきました。私はその方のことはよく覚えていませんが、その方はずっと呼びかけて下さっていたように思います。そう考えてみると、今も現に、たくさんの方々にお育てをいただいている私であることが知らされ、頭の下がる思い出でいっぱいです。待ち続けて下さっている存在がある。それを知っていくところに、教えを聞くことができるのではないかと思うのです。そこに、彼岸を願い、この此岸を生きていくことができるのではないでしょうか。
(立白法友)

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